(雑文)難易度の高い曲に挑戦しました!っていうのやめない?

夏休み中なかなか落ち着いてブログを更新できなかったので少しずつ夏にあったことも含めて更新していきたいと思っている。

 

先日のブログで東京都吹奏楽コンクール(都大会)の鑑賞をしたことについて書いた。どの団体も本当に素晴らしい演奏だった。小学校の部を聴けなかったのだが、中高大職一を合わせて全46団体の演奏を聴くことが出来た。

その中で一つ感じたことがある。

難易度の高い曲に挑戦することに執着しすぎではないか。

僕の見た吹奏楽コンクールは「技術合戦」とでも言うべきものだった。「どうですか、こんなに難しい曲を吹いてるんですよ、すごいでしょう。」と言わんばかりの選曲も多かった。見方がひねくれているだけかもしれないが…

中学生がスミスをやり、マッキーをやり、難度の高い邦人作品をやる。

高校生も大学生も大人も。

みんな同じような曲を選ぶ。

特に学生吹奏楽についてはあえてこう言いたい。

その選曲が本当に生徒の”成長”のための選曲なのか。

コンクールで勝つためだけの選曲になっていないか。

「成長≠コンクールでの好成績」とまでは言わないが、もっとこのバンドに合った選曲があるのではないかと感じた場面がたくさんあった。難易度が高すぎてただ吹いただけになっている団体が散見された。

大人はコンクールでの好成績のために吹奏楽をしていようと関係ないと思うが、子どもは第一に”教育的意義”が大事なのではないかなと感じている。

コンクールで勝つことを目指すのがダメといっているわけではない。

コンクールで勝つこと”だけ”を目指すのは違うと言いたい。

先生が「この子たちを何とかコンクールで勝たせてあげたい」と少しでも思うと、子どもたちは「勝つための演奏」をしようとするだろう。ピグマリオン効果のように教師の期待は子どもに無意識下で伝染していく。本当に育てたいものを育てられていないのではないかと危惧している。

もちろん、スミスやマッキーをやるなと言っているわけではない。今回の大会でもしっかりとマッチした印象を受けた団体はあった。難曲でも表現までしっかりこなしている団体があった。ただ、全体として選曲にはもう少し注意深くなるべきではないだろうか。名曲は数えきれないほどあるのに、同じような曲ばかり選ばれ、しかもその団体に合っていない曲が選ばれてしまうのは(主に指導者の)怠慢だと思う。

コンクールで勝つためには難易度の高い曲を選ばなくてはならないという呪縛から解放されるといいのになぁと思う。まぁ日本の学生吹奏楽は勝利至上主義がかなりはびこっているので難しいのかもしれないが…

 

雑文なのでまとまりがないが思ったままを書いた。異論は認めます。

貧賤抄(山村暮鳥 / 信長貴富)

無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より
2.貧賤抄
詩:山村暮鳥 曲:信長貴富

こがらし
こがらし
ひかりきらめくめ
いのちのめ
あみをはるのめ
こがらしのなかのめ
ひとつめ
そのつぶら
にくたいのくりすますに
これがにくしみのおくりものだ。

*”くりすます”には傍点がつく 

 『貧賎抄』について

『新潮』第24巻第4号(大正5年4月)にて発表。詩選集『穀粒』(大正10年7月・隆文館)の中の「昼の十二時その他」に収録。『山村暮鳥全集』(平成2年・筑摩書房)では「拾遺詩篇」として収録されている。

詩を読む

まずタイトルとなっている「貧賤抄」の意味を見る。

貧賤(ひんせん)

貧しくて身分が低いこと。また、そのさま。⇔富貴。

出典:デジタル大辞泉小学館

「抄」は「智恵子抄」などに使われているものと同じ意味だろう。辞書的には「長い文章の一部を抜き出したもの」というような意味の語である。合わせて「貧賤について短くまとめた詩」くらいの意味で良いかと考えられる。ちなみに信長貴富がつけた英語タイトルは「A Little Metaphor for Poorness」であり「貧賤についての少しの隠喩」と直訳できる。

ひらがな詩

第一印象として、すべてひらがなであることは気になる。ひらがなにすることの意味としては、田中(1988)が「全体をひらがなにすることによって漢字の持つ意味性を排除し、読者はまず詩のリズムに触れることになる。」と述べ、さらに「詩人はひらがな書きによって、それ(筆者注:意味を追い、内容を理解することを急ぐこと)を拒否し、リズムを追い、詩的イメージとリズムを切り離しがたいものとして干渉することを要求する。」としている。詩の形象化を重視した当時の暮鳥の作風が色濃く反映された作品であるといえる。

語の意味をとらえる

詩はいわゆる暮鳥の「聖ぷりずみすと」時代にかかれたものであり、意味的な解釈のアプローチで深めていくのは難しい(或いは無意味)と考えられるが、情景理解の助けとするために、ことばの意味も捉えておきたいと思う。

 

こがらし:冬の到来を告げる強い北風
つぶら:まるくて可愛らしい瞳
くりすますイエス・キリストの降誕と祝う祭。プレゼント(おくりもの)を交換する風習がある。

 

曲を読む

まずは、曲を大きく3つに分けて詩の展開を確認する。

~D

こがらし
こがらし
ひかりきらめくめ
いのちのめ
あみをはるのめ
こがらしのなかのめ
ひとつめ
そのつぶら

冒頭は「こがらし」をモチーフにしたスタッカートの音型で始まる。どちらかといえばこがらしの意味よりも「こ」「が」「ら」「し」という文字の響きを重視して作曲されている印象を受ける。そのいわば「スタッカートこがらし」はCの直前まで続いていく。尚、6小節目からはテナー系の2パートで「ひかりきらめくめ~こがらしのなかのめ」までの旋律が歌われている。Cからは「ひとつめ/そのつぶらめ/きらめくいのちのひとつめ/つぶらめ/こがらしのなかのめ」といった詩がアクセント中心でかなり強く歌われる。30小節目になると「スタッカートこがらし」が再開する。

E~G

こがらし
こがらし
ひかりきらめくめ
いのちのめ
あみをはるのめ
こがらしのなかのめ
(きらきら)

EはAと似たように進行する。Fに入ると「ひかりきらめくめ」特に「きらめくめ」をcresc.を伴いながらひたすら繰り返す。そしてGに入ると、まず「こがらし」がベルトーン的に歌われる。アクセントとスタッカートという変化をつけて2回歌われたのちに『雪景』でも見られる、原詩にない「きらきら」という詩が始まる。この場合は「きらめくめ」からのインスピレーションだろう。

H

にくたいのくりすますに(こがらし)
これがにくしみのおくりものだ。

Hに入るとTuttiで「にくたいのくりすますに」と歌われる。特に「くりすますに」は三回にわたって歌われるのでかなり強調されている。52小節目からはアクセントの音型で「こがらし」と歌われる。56小節目から「これがにくしみの/おくりものだ/おくりものだ」という詩が歌われ、幕を閉じる。

全体を通して

本作品も『雪景』と同様、音画的な作品であり、まさに「音のカタチを映像的に見せていく曲」であると考えられる。前述した通り「こがらし」という”風”を表現するのにあえてスラーなどではなくスタッカートを使用しているのは、「こがらし」という語の響きを重視しているからではないかと推測される。また、詩はmetaphorであり、直接の意味を考えるのではなく、何を例えたものなのかという方向からのアプローチが必要ではないだろうか。

 

以上で、無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より『貧賤抄』の解説を終わる。(2018.8.7)

雪景(山村暮鳥 / 信長貴富)

無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より
1.雪景
詩:山村暮鳥 曲:信長貴富

山はぷりずむ
山山山
山上さらにまた山
雪のとんがり
きららかに天をめがけ
山と山とは相対して
自らの光にくづれつ
雪の山山
きらりもゆる雪山
山山のあひだに於て
折れたる光線
せんまんの山を反射す

 『雪景』について

『文章世界』第11巻第4号(大正5年4月)にて発表。死後に発表された詩集『黒鳥集』(昭和35年1月・昭森社)に収録。詩集には「雪景」というタイトルの詩が3つ連続して掲載されており、この詩はその中の1つ目の作品。残り2つの「雪景」を参考までに以下に掲載する。

直線曲線
雪雪雪
ゆきがらす
雪雪
をんなのめ
みつめるかほがめになり
めはひとつ
かずかぎりなく
曲線直線
雪雪雪
うづまくめ
もえあがるめ

*『詩歌』第6巻第5号(大正5年5月)にて発表。

まよなか
地上一面白金光
ゆき
ゆきだるま
まよなか
まはだか

 *『詩歌』第6巻第6号(大正5年6月)にて発表。

詩を読み解く

「ぷりずむ」と暮鳥

まずは「ぷりずむ」(以下”プリズム”と記載)の意味を確認する。

プリズム(prism)

よく磨かれた平面をもつ透明な多面体。ガラスなどから作られ、三角柱のものなどがあり、光を分散・屈折・全反射させるために用いる。三稜鏡。

出典:デジタル大辞泉小学館

一般的にプリズムといわれると三角柱のものがイメージされる。「山はぷりずむ」という詩は三角形の山をプリズムに見立てたのだと考えられるわけだが、ここではもう少し踏み込んで考えてみたいと思う。

暮鳥の第2詩集は『聖三稜玻璃』(せいさんりょうはり)であり、この詩の発表される5か月前に刊行されたものである(大正4年12月)。この「三稜玻璃」というのがプリズムである。更にこの詩集の序として室生犀星は「聖ぷりずみすとに与ふ(*”ぷりずみすと”に傍点)」と書いている。暮鳥自身も「わが詩はぷりずむの聖霊」と述べている。

聖霊(せいれい)

キリスト教で、父なる神、子なるキリストとともに三位一体を形成する第三の位格。人に宿り、啓示を与え、聖化へと導く。助け主。慰め主。

出典:デジタル大辞泉小学館

この言葉をどのように解釈するかは難しいが「聖霊」という超越的な存在と「プリズム」による一種の”科学的”とも言うべき目を併せ持っていると考えられる。だからこそ新鮮な物質感や形象・本質といったものを見出すことができるのだろう。このような詩法はフランスの詩人、シャルル・ボードレールのものに源泉を見出せると多くの研究者が指摘している(関川(1982)、田中(1988)など)。

余談だが、プリズム(山)は「三」角形、聖霊が「三」位一体の位格の一つという所にも共通点がある。三という数字はキリスト教に限らず東洋的思想も含め特別な数字とされてきた。よく詩を見返してみると、2行目は「山山」ではなく「山山山」である。(8・12行目の「山山」はいわゆる「山々」という名詞的に用いられている。)この「山山山」という独立した部分はあえて三字にしたのではないかと推測される。

さて、話を戻していく。前述したように、プリズムは暮鳥と深いかかわりがあり『聖三稜玻璃』の前後の時期における暮鳥の詩を象徴するものである。プリズムはこの時期の山村暮鳥という詩人そのものと言っても過言ではない。だとすれば、この雪景という詩は暮鳥自身を「山」という存在に重ねて、自らを客観視していると考えることもできるだろう。或いは「山」というのを「詩人」と捉えて解釈することもできるかもしれない。

意味的な解釈は詩を読んでいく上で重要なポイントの一つである。しかし暮鳥の場合には意味的解釈に踏み込む前に、この時期の暮鳥の作風を理解する必要がある。結論から言ってしまえば、この時期(『聖三稜玻璃』前後)の彼の詩への意味的な解釈によるアプローチは実際のところ困難あるいは無意味である。詳しくは次項へ。

『聖三稜玻璃』の詩風

ここでは『聖三稜玻璃』の時期の暮鳥の作風について、できるだけ簡潔に説明していく。

詩集発行の前年(大正3年)に暮鳥は、萩原朔太郎室生犀星と共に「人魚詩社」を結成した。対外的には「詩と宗教と音楽の研究」を目的としながら、内実としては新たな詩法の確立を目指すものだった。ここでいうところの新たな詩法だが、暮鳥の場合には「言葉に非ず、音である。文字に非ず、形象である。それが真の詩である。」という彼の言葉にも表れる通り、形象化を重視していた。これは確かに新たな詩法ではあるが、彼が影響を受けたボードレールの「韻律を踏まないでしかも音楽的節奏を感銘づける」詩法への接近ともいえる。

このようにして刊行された『聖三稜玻璃』に収められた詩篇はまさに当時の詩壇に対する挑戦であった。この詩法について山村暮鳥研究の第一人者である和田義昭氏は山村暮鳥全集(1990・筑摩書房)第1巻解題にて「従来の詩語の持つ意味的連続性を打破したもので、イメージそのものの提示、あるいはイメージ同士の結合、衝突を狙ったものと見える。詩集中にちりばめられたイマジネーティブな表出、倒錯、あえて均衡を無視したアンバランスな叙述等は近代詩における最初の前衛的詩法の開示であり、口語詩に新たな可能性の道を切り開いたものである。」と述べている。しかしこの詩法は理解されず、詩壇からは酷評を受けた。

翌年(大正6年)には暮鳥の詩風が変化していることが詩壇でも注目されており、次の刊行詩集『風は草木にささやいた』(大正7年11月)では、『聖三稜玻璃』の頃の詩法を完全に放棄し、汎神論的自然観を取り入れた人間賛歌的な詩風の作品となっている。

つまり『雪景』はいわゆる「ぷりずみすと」であった暮鳥の詩風が放棄される直前の詩であり、意味よりもイメージや形象的な部分が重視された詩であると考えられる。ゆえに意味的解釈を深めることにはあまり意味がない。この時期の暮鳥は、(自らの)詩を論理的に理解しようとすることを否定したこともあるという。強引に意味的解釈をしようとすることは暮鳥の意思にも反することになるだろう。

 

曲から詩を読む

この曲は音画(自然現象や風景などを、音によって絵画的に表現した楽曲)的な作品であり、作曲者本人の解説にある言葉を借りるならば「音のカタチを映像的に見せていく曲」となっていると考えられる。

まずは、練習番号ごとに用いられているテキストとその使われ方を詳説する。

~A

山はぷりずむ
山山山
さらにまた山

冒頭はTuttiかつUnisonで「山はぷりずむ」と歌われる。4小節目から「り」にアクセントが置かれるようになり、「ぷりずむ」と「りずむ」が共存し始める。7小節目になると、セカンドが8分音符のスタッカートの音型で「山」を歌い始める、「ぷりずむ」を歌うパートはなくなり「りずむ」のみが歌われる。10小節目からは「山」がなくなる代わりに、音型のみを引き継いで「りずむ」が歌われる。16小節目になると「りずむ」がなくなり「山山山」という詩がパートごとに順に始まる。

Aの冒頭はこだまのように「ま」のみが裏拍で歌われる。20小節目になると「や」も歌われ始め「山」という単語が”分業して”繰り返し歌われる。21小節目になるとトップテナーが「さらにまた山」というフレーズを歌い始める。(原詩の”山上”は作曲されていない)24小節目にTuttiで「山」と歌い、2拍目からベルトーンで「ぷりずむ」と歌う。

B

雪のとんがり
きららかに天をめがけ
山山山

Bからは「雪のとんがり/きららかに/雪のとんがり/天をめがけ」とメロディックに歌われる。その後、30小節目からの「ま」のみ裏拍で歌われる部分を経て、31小節目4拍目からは、Aとは異なる音程で「山山山」という詩が”分業して”繰り返し歌われる。34小節目になるとやはりTuttiで「山」と歌ってBは幕を閉じる。

C

山と山とは相対して
自らの光にくづれつ
(きらきらきら)

Cの冒頭は「山とは」というフレーズをベースが2声部にdiv.して交互に歌って「山と山とは」という詩を表現する。37小節目からはベース以外の3パートが「相対して/対して/自らの/光にくづれつ/光にくずれつ」とタイミングをずらして歌う。43小節目からはベースが「光」というテキストに移行し、44小節目からはベース以外が「きらきらきら」と歌い続ける。この「きらきらきら」は原詩にないが「きららか」或いは「きらり」といった語から作曲者がインスピレーションを受けて付け足したのではないかと推測される。47小節目に「山」とTuttiで歌われてCは幕を閉じる。

D

もゆる雪山(きらきら)
山山のあひだに(きらきら)
折れたる光線
せんまんの山を(きらきらきら)

原詩の「きらり」「於て」は作曲されていない。楽譜には記載されていないが、おそらく「雪の山山」も作曲されていない。Dの冒頭は拍子を変えながら「もゆる雪山」がTuttiで歌われる。「きらきら」が波のように歌われ「山山の」というテキストが現れた後、52小節目は「あひだに」とTuttiで歌われる。再び「きらきら」を経て54小節目からは「折れたる光線」という詩がパートごとにタイミングをずらして歌われる。58小節目になると「せんまんの山」とTuttiで歌われ、「山」というテキストがファンファーレ的に輝かしく歌われる。63小節目に「を」と歌われると再び「きらきらきら」と歌われる。65小節目からは「きら」というテキストとして歌われ、66小節目にTuttiで「きら」と歌ってDは幕を閉じる。

E

山を反射す
山はぷりずむ

「反射す」とTuttiで歌われた後、「きらきらきら」が波のように歌われ、69小節目からは「山を反射す」とベースが、70小節目からは「山を山を」とバリトンが歌う。72小節目になると冒頭の「山はぷりずむ」がトップテナーによって歌われ、74小節目からはエコーのように「りずむ」とベルトーン的に2回歌われて幕を閉じる。

全体を通して

まずは「山はぷりずむ」というテキストを上手に利用して「りずむ」という言葉を浮かび上がらせていることから、作曲者の遊び心を感じ取ることができる。非常に面白いと感じるがいかがだろう。ちなみに、暮鳥は詩作の要素として「リズムと発見(創造)とイルミネエシヨン」を挙げているが、同時にリズムを「得体の知れないもの」とも表現している。ちなみに後半は「きらきら」というフレーズが繰り返されるのだが、なんとなく「イルミネーション」のようなものを感じ取れるのは偶然だろうか…?

AやBに見られる「山山山」やCの「きらきらきら」は音がクラスター的(密集)でありどこか”効果音”的な印象を受ける。一方でDとEの「きらきら」「きらきらきら」は音程的にはUnisonであり、一本の線が波のように流れているような印象を受ける。

 

以上で、無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より『雪景』の解説を終わる。

(2018.7.26)

 

*引用文献・参考文献

山村暮鳥(1990)山村暮鳥全集(全4巻) 筑摩書房
平輪光三(1976)山村暮鳥・生涯と作品 崙書房
田中清光(1988)山村暮鳥 筑摩書房
堀江信男(1994)山村暮鳥の文学 筑波書林
北川透(1995)萩原朔太郎〈言語革命〉論 筑摩書房
関川左木夫(1982)ボオドレエル・暮鳥・朔太郎の詩法系列 昭和出版
佐藤泰正(1997)日本近代詩とキリスト教:佐藤泰正著作集⑩ 翰林書房
日本文学研究資料刊行会(1984)近代詩:日本文学研究資料叢書 有精堂
和田義昭(1968)山村暮鳥研究 豊島書房

光明頌栄(山村暮鳥 / 信長貴富)

無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より
4.光明頌栄
詩:山村暮鳥 曲:信長貴富

主は讃(ほ)むべきかな
土からはひでた蛆虫(うじむし)のおどろき
主は讃むべきかな
土からはひでた蛆虫のよろこび
主は讃むべきかな
土からはひでた蛆虫のなみだ
そらのあをさにかぎりはない
天(あま)つ日のひかりのなかを
これからどこへ行かうとするのか
蛆虫よ
だがみかへるな
その来しかた
そこにおのづからなる道がある
ただ一すぢの無始無終の道がある

『光明頌栄』について

『詩歌』第4巻第7号(大正3年7月)にて発表。『黒鳥集』(昭和35年1月・昭森社)の最初に収録。『黒鳥集』は生前に暮鳥自身によって編集されていたが未完に終わったためかなりの時が経ってからの刊行となった。

 

解釈にあたって

当時の暮鳥の作風

『光明頌栄』が発表されたのは、第1詩集『三人の処女』の刊行1年2か月後、第2詩集『聖三稜玻璃』の刊行の1年5か月前であった。また発表が、萩原朔太郎室生犀星と共に人魚詩社を設立した時期(大正3年6月)とほとんど重なっているため、まだまだ形象化を強く打ち出す新たな詩法は確立しきっていないと考えられる。しかし、シャルル・ボードレールをはじめとした海外の詩人の作品に触れたことで、第1詩集の頃とはかなり異なる詩を書いている。詩人の藤原定は、この時期の暮鳥の作風を「立体的、天地・内外倒錯的詩法」と呼び、新奇な詩体の作品を多く作っていたと述べている。

語の意味を確認する

・光明【こうみょう】…暗闇を照らす明るい光、また将来への明るい見通し。

*仏教では、仏・菩薩の心身から発される光という意味の仏語として使われる。

・頌栄【しょうえい】…キリスト教の様々な典礼における三位一体への賛美において歌われる賛美歌、唱えられる祈祷文のこと。

・蛆虫【うじむし】…ハエの幼虫。一般には腐肉や汚物などに発生する(わく)。

追記(7.24)

蛆虫はこの曲の中では「(ある意味で)汚い物」を象徴していると考えられる。そんな蛆虫が土から這い出て、光を浴びて、無始無終の道を行くという話に対して「主は讃むべきか」と言っているのだろう。

・天つ日【あまつひ】…天の日。太陽の光(=天日)と予想される。

・無始無終【むしむしゅう】…始めも終わりもなく、限りなく続いていること。(仏教用語では輪廻が無限であることをいう)

Gloria Patri

光明頌栄には「Gloria Patri」という訳が与えられている。Gloria Patri はキリスト教の様々な典礼における三位一体の賛美において歌われる賛美歌である。

ラテン語の詩としては

Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto.
Sicut erat in principio, et nunc, et semper, et in saecula saeculorum. Amen.

が大変有名である。

尚、この曲の中でも随所に「Gloria」という言葉が挟み込まれている。Gloriaという言葉だけの意味としては「栄光」といったところ。

解釈例

田中(1988)は『光明頌栄』について「土から出た蛆虫という暗喩で、蘇生のおもい、新天地を見出したおどろき、よろこびが歌われ、「ただ一すぢの無始無終の道」へ向かうことが書かれている」と述べている。この頃から、晩年の暮鳥を象徴する「汎神論」の特徴が詩にみられている。

曲を読む

詩は次のように流れていく

主は讃(ほ)むべきかな
主は讃(ほ)むべきかな
土からはひでた蛆虫(うじむし)のおどろき
蛆虫のよろこび
主は讃むべきかな
土からはひでた蛆虫のなみだ
主は讃(ほ)むべきかな
主は讃(ほ)むべきかな
そらのあをさにかぎりはない
天(あま)つ日のひかりのなかを
これからどこへ行かうとするのか
だが蛆虫よ
みかへるな蛆虫よ
その来しかた
そこにおのづからなる道がある
ただ一すぢの無始無終の道がある
道がある 道が 道が

前述した通り、この詩に「Gloria」という言葉が繰り返し挿入される。

練習番号Aには「Allegretto pomposo」とある。Allegrettoは速度標語「やや急速に」。pomposoはイタリア語で「豪華な・壮麗な」といった意味である。練習番号Gの1小節前にはbrillante(輝かしく)という音楽用語も書かれており、明るく輝かしく歌うことが必要である。

 

以上で無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より「光明頌栄」の解説を終わる。(2018.7.24)

じゆびれえしよん(山村暮鳥 / 信長貴富)

無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より
7.じゆびれえしよん
詩:山村暮鳥 曲:信長貴富

泥醉せる聖なる大章魚
そらに擴(ひろ)げた無智の足
官能の高壓(こうあつ)的なからくりに
マリヤ・マルタは
はんかちいふを取り出し
なみだを絞る
晝(ひる)の十二時
盲目なる大章魚(おおだこ)の礫刑(はりつけ)
毛のない頭蓋を直立させ
三鞭酒(しやんぺん)の脚杯(さかづき)ささげ
もぐもぐ何か言ふさうなが
なにがなにやら
あはれ晝(ひる)の十二時

『じゆびれえしよん』について

『秀才文壇』第16巻第1号(大正5年1月)にて発表。山村暮鳥全集(筑摩書房・1990)においては拾遺詩篇に収録されている。山村暮鳥全詩集(弥生書房 1964)においては「昼の十二時」に収録されている(筆者は未確認)。 

解釈にあたって

制作当時の暮鳥の作風

発表が大正5年1月と『聖三稜玻璃』の刊行直後であることを考えると、『聖ぷりずみすと』として多くの詩を生み出した時期の詩風であると考えられる。しかし、『1.雪景』や『2.貧賎抄』とは異なり、これだけ漢字を多用し、難解な語も多く用いている以上、意味的連続性を打破してイメージに頼っているとは考えにくい。

語の意味

・章魚【たこ】…キリスト教世界では守銭奴の象徴とされる。西洋では好色のシンボル。

ちなみに「大章魚」が神話に出てくる生物であるという可能性も考えられる。詳しくは以下のリンクを参照。 アッコロカムイ - Wikipedia / 大章魚 | オオダコ | 怪異・妖怪伝承データベース

・官能【かんのう】…生物の諸器官、特に感覚器官の働き。また肉体的快感、特に性的感覚を享受する働き。

・マリヤ・マルタ…新約聖書に登場する女性の姉妹。キリストの親友だった。詳しくは→マリア (マルタの妹) - Wikipedia

・はんかちいふ…handkerchief(英)。ハンカチ。

・なみだを絞る…(絞るほど)たくさん涙が出てしまうこと。

磔刑【はりつけ】…一般的には罪人を柱などに縛り付け、槍などを用いて殺す公開処刑のこと。キリスト教では新約聖書にも書かれているイエス・キリストの十字架刑が有名。詳しくは→キリストの磔刑 - Wikipedia

三鞭酒【シャンペン】…シャンパ

キリストの磔刑とじゆびれえしよん

テキストはかなり難解なようにも思われるが「昼の十二時」「マリヤ・マルタ」「磔刑」といった言葉から推察するに、キリストの磔刑のパロディ作品ではないかと思う。詳細はWikipediaあたりを参照。→キリストの磔刑 - Wikipedia

キリストの磔刑において「昼の十二時」は大きな意味を持っている。聖書では「イエスを十字架につけたのは朝九時ごろ。昼の十二時ごろになると、全地は暗くなり三時に及んだ。そして叫びをあげてキリストは息を引き取った」という旨の記述がある。(詳しくはこちらのサイトを参照→http://www.ne.jp/asahi/jun/icons/theme/crucifix.htm)すなわち「昼の十二時」は、全地が暗くなる時刻、死を目前にした暗黒の時間の始まりと考えられる。

関係を整理すると、大章魚→キリストであることは疑いがないだろう。大章魚は「泥酔」した「聖なる」大章魚であり「無智の足」を持っている。後半では「盲目」で「毛のない頭蓋」という特徴がかかれている。聖書に盲人は何人も出てくるが、キリスト自身が盲目だったという事実はない。ここでは、昼の十二時になり暗黒を迎えたことで「盲目」と考えると自然だろうか。「毛のない頭蓋」についてはキリストのことか「大章魚」のことかはっきりとは分からない。

暮鳥の生命観と「無智」

当時の暮鳥は、人間は理智のために生命の本質から遠ざかった存在であると考えていた。暮鳥の生命観を以下に示す。

・生命の本質は不可見であるが、個体において、つまり個々の生物の形において、可見的であるとする論に対して、個体と本質とは相即不離の関係にあるのだから、個体に顕現する個体の本質が生命の本質を象徴するということ。
・人間においては、理智というもののために、生命の本質が個体を通して顕現してこない、つまり理智のために、生命の本質を象徴すべき人間の本質が顕現しにくい

このような生命観の中で「無智」という言葉は大きな意味を持つ。すなわち「無智」であることは、生命の本質に近い存在であるということである。

 

楽譜を読む

ソロを中心として曲は展開していく。詩の流れを確認すると以下のようになる。

泥醉せる聖なる大章魚
そらに擴(ひろ)げた無智の無智の無智の足
官能の高壓(こうあつ)的なからくりに
マリヤ・マルタは
はんかちいふを取り出し
なみだを絞る
晝(ひる)の十二時
晝(ひる)の十二時
なにがなにやら
あはれ晝(ひる)の晝(ひる)の十二時
盲目なる大章魚(おおだこ)の礫刑(はりつけ)
毛のない頭蓋を直立直立直立させ
三鞭酒(しやんぺん)の脚杯(さかづき)ささげ
もぐもぐ何か言ふさうなが
なにがなにやら
なにがなにやら
晝(ひる)の十二時
晝(ひる)の十二時
なにがなにやら
あはれ晝(ひる)の晝(ひる)の十二時
晝(ひる)の晝(ひる)の十二時
あはれ 

注目すべきは繰り返すことによって強調されている言葉である。「無智の」「直立」といった言葉も気になるが、やはり最も強く主張されているのは「晝(ひる)の十二時」である。この時間については先述した通り、キリストの磔刑において全地が暗くなる始まりである。

ちなみに大章魚の描写はBassソロ、周りの描写はTenorソロ、そして「晝(ひる)の十二時」を残酷に歌うのがtuttiというように分担がはっきりなされていると解釈可能である。

タイトルの「じゆびれえしよん」(Jubilation)という言葉の意味は英訳すれば「歓喜・喜び」といったところだが、ラテン語を辿ると「叫び」(jubilant)というような意味もある(基本的には「歓喜の叫び」という意味であるが)。磔刑のパロディについての詩と考えるのであればかなり皮肉のこもった詩である。

 

最後に簡単に楽典的な部分に触れておく。使われている音楽用語「Grandioso」は「壮大に」という意味である。fffとはいえ押し付けた響きではなく「壮大に広がっていく」響きが求められる。

(楽典の知識は浅いためあまり深いことは言えないのだが)練習番号Cあたりからのコード進行も非常に重要である。実は練習番号A・Bは短調が支配していたが、練習番号Cは長調が支配しているという所には注目しておきたい。暗黒なのに……笑

 

以上で、無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より「じゆびれえしよん」の解説を終わる。(2018.7.29)

りんごよ(山村暮鳥 / 信長貴富)

無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より
6.りんごよ
詩:山村暮鳥 曲:信長貴富

 

本作品は『りんごよ』の詩に加えて『薄暮祈り』という詩が部分的に使われているのでまずは両方の詩を取り上げる。

詩(りんごよ……)

りんごよ
りんごよ
りんごよ
だが、ほんたうのことは
なんといつてもたつた一つだ
一生は一つのねがひだ
一生の一つのねがひだ
ころりと
こつそりわたしに
ころげてみせてくれたらのう
りんごよ

『りんごよ……』について

未定稿。制作時期は大正2年〜6年頃と推定。死後に刊行された詩集『万物節』(昭和15年12月・厚生閣)1章に収録。百田宗治によって編纂された。尚、楽譜上では「……」は表記されていないが、ここでは原詩を尊重して表記する。

 

詩(薄暮祈り

此のすわり
此の静かさよ
而もどつしりとした重みをもつて林檎はまつかだ
まつかなりんご
りんごをぢつとみてゐると
ほんとに呼吸をしてゐるやうだ
ねむれ
ねむれ
やせおとろへてはゐるけれど
此の掌(て)の上でよくねむれ
此のおもみ
此の力のかたまり
うつくしいのは愛だ
そして力だ
林檎一つ
ひたすらに自分は祈る
ましてこのたそがれの大なる深さにあつて
しみじみとりんごは一つ
りんごのやうに自分達もあれ
此の真実に生きよう

*太字部分が挿入された部分

薄暮祈り』について

『苦悩者』第2号(大正7年11月)にて発表。第3詩集『風は草木にささやいた』(大正7年11月・白日社)Ⅹ章に収録。

 

詩を読む

当時の暮鳥の作風

この2作はほぼ同時期に制作された詩である(※要確認)と考えられている。『薄暮祈り』が掲載されている詩集『風は草木にささやいた』は暮鳥にとっても再起をかけた作品であった。前作『聖三稜玻璃』の頃の”新詩法”はきっぱりと捨て、自然への愛情や大地自然とともに生きる人間賛歌的な詩を中心とした作品となっている。『りんごよ』も言葉の響きを大切にする作品ではあるが、意味としての重要性もある。

不完全だった『りんごよ……』

『りんごよ』は未定稿であり雑誌への発表がなされていない。未定稿作品は単に発表されなかっただけなのか未完成なのか分からないものの、いずれにしても”不完全”な作品であることに間違いはないだろう。

万物節とは

万物節という言葉はおそらく造語である。キリスト教の「万霊節」という言葉をもとに、暮鳥の汎神論的自然観と照らし合わせて「霊」を「物」に代え、すべての物は神の顕現によって肯定されるといった意味を示していると考えられる。

 

暮鳥にとっての「りんご」

りんごは何の象徴なのか。様々な解釈が可能である。『薄暮祈り』には

うつくしいのは愛だ

という一節がある。一般的に愛と言われると赤いものをイメージすることは可能だろう。りんごは愛の象徴であると考えることもできる。

又、2つの詩に共通する主題は

ほんたうのことは なんといつてもたつた一つだ(りんごよ……)

りんごのやうに自分達もあれ 此の真実に生きよう(薄暮祈り

といった「真実に生きる」という素朴で根元的な願いであると思われる。暮鳥の詩の中ではしばしば生命について歌われる。りんごは生命の表象の一つであり、赤く燃えた生命の灯であると考えることもできるだろう。

 

意味が難しい語も少なく非常に読みやすい詩であるが、具体的に解釈していくのは難しい作品であると思う。ここではあえて深い解釈には言及しないが、いくつか注目すべきポイントを挙げておく。

まず『りんごよ』の4行目には、読点が置かれている。これは実際に歌う時にも意識するべきポイントである。もちろん、ここにある「だが」という接続詞は逆接であるが、何に対しての逆接なのか考察する必要がある。

薄暮祈り』で一番注目すべきはやはり15行目のみ漢字の「林檎」であるということではないだろうか。ここが曲の中でも引用されていることを考えると、ここはしっかりと解釈しておきたい部分だ。(ちなみに「重み」と「おもみ」も使い分けられているが、直接的に本曲とは関係がないと思われる。)

 

参考までに暮鳥が「りんご」を使っている他の詩をいくつか引用する。

詩集『雲』より

りんご

両手をどんなに
大きく大きく
ひろげても
かかへきれないこの気持
林檎が一つ
日あたりにころがつてゐる

赤い林檎

林檎をしみじみみてゐると
だんだん自分も林檎になる

おなじく

ほら、ころがつた
赤い林檎がころがつた
な!
嘘嘘嘘
その嘘がいいぢやないか

おなじく

おや、おや
ほんとにころげでた
地震
地震
赤い林檎が逃げだした
りんごだつて
地震はきらひなんだよう、きつと

おなじく

林檎はどこにおかれても
うれしさうにまつ赤で
ころころと
ころがされても
怒りもせず
うれしさに
いよいよ
まつ赤に光りだす
それがさびしい 

おなじく

こどもはいふ
赤い林檎のゆめをみたと
いいゆめをみたもんだな
ほんとにいい
いつまでも
わすれないがいいよ
大人(おとな)になってしまへば
もう二どと
そんないい夢は見られないんだ

さらに読みたい方はこちらを参照。

山村暮鳥 雲

 

続いて、曲の中での詩の流れに注目してみたいと思う。

(ルルルルルルララララー ルールールールー)
りんごよ
りんごよ
だが、りんごよ
ほんたうのことは
だが、たった一つだ
りんごよ
りんごよ
なんといっても
ほんたうのことは
だが、たった一つだ

此のおもみ
此の力のかたまり
林檎一つ
ひたすらに自分はいのる

一生は一つの願いだ
りんごよ
一生の一つの願いだ

ころりと
こっそりわたしに
ころげてみせてくれたらのう
りんごよ
りんごよ

りんごよ
りんごよ
だが、ほんたうのことは
りんごよ
たった
たった一つだ
此のおもみ
此の力
りんごよ
りんごよ
(ルール―ルールー)

元々の詩と読み比べるとやや印象が変わっている。特に「だが、りんごよ」というような「だが、」の位置の変化は重要なポイントであると感じる。

挿入句は2回出てくるが、2回目は「此の力のかたまり」ではなく「此の力」という言葉に代わっているのも気になるところか。

 

曲について

最後に曲について少し補足的に見ていく。

冒頭が8分の9拍子であるが、A以降は最後まで8分の6拍子で音楽が流れ続ける。

強弱は、pからfffまでかなり幅広い。急激な変化も多いため注意が必要である。例えば、AとBとでは強弱の変化の仕方が異なり印象も全く変わってくる。全体的にかなり細かく書き分けられているので注意深く演奏したい。

注目したいこととしては、A~Bでは1拍目に「りんごよ」と歌うが、E以降はアウフタクト的に2拍目から「りんごよ」と歌う形に変化する。

追記(7.24)

練習番号Aはロ短調(E moll)だが、練習番号Eからはト長調(G dur)に変化する。平行調への転調であるため調号は変わらないが、曲想としては大きく変化している。

アクセントのつけ方にも注目したい。41・42小節目は「り」ん「ご」「よ」というアクセントだが、57小節目は「り」「ん」「ご」「よ」というアクセントがついている。このような細かいアーティキュレーションにも十分気を付ける必要がある。

 

以上で、無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より、『りんごよ』の解説を終わる。

(2018.8.7)

独唱(山村暮鳥 / 信長貴富)

無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より
5.独唱
詩:山村暮鳥 曲:信長貴富

かはたれの
そらの眺望(ながめ)の
わがこしかたの
さみしさよ。

そのそらの
わたり鳥、
世をひろびろと
いづこともなし。

 

『独唱』について

『詩歌』第2巻第12号(大正元年12月)にて発表。暮鳥の第1詩集『三人の処女』(大正2年5月・新声社)に収録。この詩は「SAGESSE」の「I 創造の悲哀」という章の1つ目の詩であり、『三人の処女』全体の中で一番はじめに収められている詩である。

 

解釈にあたって

語の意味を確認

かはたれ→明け方のこと

かわたれどき【かわたれ時】

《「彼 (か) は誰 (たれ) 時」の意。あれはだれだとはっきり見分けられない頃》はっきりものの見分けのつかない、薄暗い時刻。夕方を「たそがれどき」というのに対して、多くは明け方をいう。

出典『デジタル大辞泉』(小学館

*夕方の薄暗い時分のことをいう場合もあるが、現在の用例では明け方が普通。

こしかた(来し方)→通ってきた道

こしかた【来し方】

1 過ぎ去った時。過去。きしかた。
2 通り過ぎてきた場所・方向。

出典『デジタル大辞泉』(小学館

さみしさ→人の気配がなくてひっそりとしているさま。

いづこともなし→どこへというあてもなく。

いづこともなく【何処ともなく】

どこへというあてもなく。どことも知れず。
(いづこ+と+も+なし)

出典『デジタル大辞泉』(小学館

『三人の処女』刊行当時の作風

『三人の処女』について、神保治八は「全体として浪漫的抒情によって支えられている。その中には、ことば音楽ともいうべき美しい情緒の流れがある。(中略)感情を優位に、哀愁が発想となった抒情詩である。」と述べている。「独唱」もまさに抒情的な作品の一つであり、少年時代における淋しく悲しい生活への懐古の情と、自由への願望、また精神的に孤独だった暮鳥の想いが全面に出ている。また、詩集全体を貫く要素の一つに「陰影(かげ)」というキーワードもしばしば挙げられる。

解釈例

堀江(1994)の解説文を引用する。

夕方の空は詩人が過ぎてきた過去の道程である。まさに暮れようとして覚束ない空の眺望そのものが詩人の心象風景であり、それは自らの過去の寂しさであると同時に現在の寂しい心情が託された風景である。憂愁に閉ざされた詩人の孤独な姿が客観される。
第二連には、詩人の孤影と対象的に渡り鳥が点描される。空は夕暮れの寂しさをたたえているが、その空を渡っていく渡り鳥は、「世をひろびろと」見下ろし、いずこともなく渡って行く。「世をひろびろと」というのはまた、囚われずに自由に生きる、ということでもある。そのようなありようへのあこがれが託されている。その渡り鳥もすぐ夜の闇に閉ざされる存在ではあるが、大空を飛ぶ鳥には、憂愁に閉ざされ、囚われた詩人にはないひろやかな視点と自由がある。
「わがこしかた」の寂しさからの脱却、囚われない、自由へのあこがれがうたわれ、それはまた詩人の「さびしさ」を際立たせるという関係にあり、序詩としてこの詩集全体を暗示する。

出典:『山村暮鳥の文学』(筑波書林)

田中(1988)はこう述べている

「かはたれ」に重ねて、「わがこしかた」を「さみしさよ」と歌わずにはいられないこの時点における過ぎこしかたの眺望と、しかも「世をひろびろと」というとおり開けたところに立ちながら「いづこともなし」とまだ行くべきところが明確に見えていない青年の内面が重ねられていると読める。

出典:『山村暮鳥』(筑摩書房

 

楽譜を読む

今回は詩の流れ方に注目してみる。(便宜上すべてひらがなで表記した。)

かはたれの
そらのながめの
わがこしかたの
さみしさよ(わが)
さみしさよ

そのそらの(その)
わたりどり
ひろびろと
よをひろびろと
いづこともなし

かはたれの
そらのながめの(わが)
さみしさよ
わがこしかたの
さみしさよ

※()内は対旋律的に歌われている歌詞

全体としては、第1連→第2連→第1連という構成で使われている。

注目したいのは、第1連での「さみしさよ」という言葉の繰り返し方や、第2連での「ひろびろと」という言葉の繰り返し方である。この曲の場合、同じ言葉をニ度繰り返すときのダイナミクスに規則性があるので、歌う時には十分気をつけたい。

曲についての補足

最後にほんの少しだけ楽典的な部分も書いておきたい。

音楽用語

まず、Aのところに書かれている音楽用語は、速度標語の”Larghetto”(ラルゲット)。意味は「Largoよりやや速く」である。

Largoは速度標語として「ゆるやかに」といった訳があてられることが多いが、イタリア語の意味としては「幅が広い」というような意味である。

Largoの「ひろびろと」した雰囲気を保ちながら旋律の横の流れも大切にした演奏が望まれるのではないかと思う。

*このあたりについてこちらのブログに非常に詳しく書かれていたのでリンクを貼らせて頂く。


tomo110td5.blog.jp

表現について

曲全体を通してダイナミクスの変化がかなり多く、特に「短いcresc・dim」が多用されているのが特徴的である。また、言葉の区切れでスラーが切れるように書かれているのも重要なポイントではないだろうか。

詩からは物悲しさを感じるが、曲はAメジャーで終始明るめに進行していくのであまり暗くなりすぎないほうがいいだろう。

 

以上で、無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より『独唱』の解説を終わる。

(2018.7.28 最終更新)