(雑文)難易度の高い曲に挑戦しました!っていうのやめない?

夏休み中なかなか落ち着いてブログを更新できなかったので少しずつ夏にあったことも含めて更新していきたいと思っている。

 

先日のブログで東京都吹奏楽コンクール(都大会)の鑑賞をしたことについて書いた。どの団体も本当に素晴らしい演奏だった。小学校の部を聴けなかったのだが、中高大職一を合わせて全46団体の演奏を聴くことが出来た。

その中で一つ感じたことがある。

難易度の高い曲に挑戦することに執着しすぎではないか。

僕の見た吹奏楽コンクールは「技術合戦」とでも言うべきものだった。「どうですか、こんなに難しい曲を吹いてるんですよ、すごいでしょう。」と言わんばかりの選曲も多かった。見方がひねくれているだけかもしれないが…

中学生がスミスをやり、マッキーをやり、難度の高い邦人作品をやる。

高校生も大学生も大人も。

みんな同じような曲を選ぶ。

特に学生吹奏楽についてはあえてこう言いたい。

その選曲が本当に生徒の”成長”のための選曲なのか。

コンクールで勝つためだけの選曲になっていないか。

「成長≠コンクールでの好成績」とまでは言わないが、もっとこのバンドに合った選曲があるのではないかと感じた場面がたくさんあった。難易度が高すぎてただ吹いただけになっている団体が散見された。

大人はコンクールでの好成績のために吹奏楽をしていようと関係ないと思うが、子どもは第一に”教育的意義”が大事なのではないかなと感じている。

コンクールで勝つことを目指すのがダメといっているわけではない。

コンクールで勝つこと”だけ”を目指すのは違うと言いたい。

先生が「この子たちを何とかコンクールで勝たせてあげたい」と少しでも思うと、子どもたちは「勝つための演奏」をしようとするだろう。ピグマリオン効果のように教師の期待は子どもに無意識下で伝染していく。本当に育てたいものを育てられていないのではないかと危惧している。

もちろん、スミスやマッキーをやるなと言っているわけではない。今回の大会でもしっかりとマッチした印象を受けた団体はあった。難曲でも表現までしっかりこなしている団体があった。ただ、全体として選曲にはもう少し注意深くなるべきではないだろうか。名曲は数えきれないほどあるのに、同じような曲ばかり選ばれ、しかもその団体に合っていない曲が選ばれてしまうのは(主に指導者の)怠慢だと思う。

コンクールで勝つためには難易度の高い曲を選ばなくてはならないという呪縛から解放されるといいのになぁと思う。まぁ日本の学生吹奏楽は勝利至上主義がかなりはびこっているので難しいのかもしれないが…

 

雑文なのでまとまりがないが思ったままを書いた。異論は認めます。

吹コン都大会鑑賞記(2)

第58回東京都吹奏楽コンクール(都大会)2日目。

本日は大学の部から高等学校の部まで聴かせて頂きました。前日の職場・一般の部と中学校の部に増して素敵な演奏だらけでした。感想を書いていこうと思います。

 

【大学の部】

1.専修大学(銀)

普通に上手いなという演奏。特に課題曲Ⅴはよく整理されておりとても好印象でした。強いて言うならば、発音やピッチで時々乱れることが気になるのと、強奏・弱奏どちらも「あと一歩何かが足りないなぁ」という演奏でした。

 

2.明星大学(銀)

無難で安定していました。裏を返せば、面白みの少ない演奏でした。特に自由曲はもう少し攻めてほしかったなと思います。休符で緊張感が途切れがちだったのも惜しかったなと。今後に期待のバンドです。

 

3.中央大学(銅)

指揮者の音楽を表現しようと一生懸命に演奏している姿には好感が持てましたが、何をしたいのかは分からない演奏でした。もう少しアゴーギクを意識して長生作品らしく仕上げてほしかったという願望もあります。ただ銅賞というほど悪くはなかったかと。

 

4.明治学院大学(銅)

課題曲Ⅲは色々と惜しい演奏でした。発音が安定すると良いですね…自由曲もなかなか難しい選曲でしたが、終始音を並べるので手一杯な印象は否めず、もう少しいろいろやってほしかったなと思う演奏でした。

 

5.創価大学(金代)

課題曲Ⅲは、だいぶ好き勝手やっていましたが、個人的には本大会ナンバーワンのワルツでした。音楽の推進力が一度も失われなかったのはお見事でした。自由曲の自作自演もなかなか熱い作品でした。強奏がやや物足りなかったので代表は厳しいかと思いましたが。このような団体の全国出場は素直に嬉しいです。

 

6.立正大学(金)

課題曲Ⅲはしっかりとまとめてきていましたが、創価大のせいで印象は薄かったかな。くじ運の問題でしょう。自由曲はどこか惜しい演奏でした。全体的な完成度は決して悪くなかったのですが…インパクトが足りなかった印象です。

 

7.東海大学(金代)

他団体とは明らかにレベルの違う課題曲Ⅴ、そして安定感のある長生淳作品。とにかく圧倒されました。既に全国でも上位を狙えるだろうなという演奏でした。

 

8.駒澤大学(銀)

少人数で、選曲も流行りの曲ではなく自分たちのカラーを出していて非常に好感を持った演奏でした。全体的にすっきりとまとまった演奏でした。

 

★総評

・想像以上にレベルの高い演奏ばかりでした。選曲についてもいわゆる”人気曲”以外を攻めている団体も多く、一番聴いていて楽しい部門でした。

 

【高等学校の部】

1.東海大学付属高輪台高等学校(金代)

まさに熱演でした。高校生の頃にずっと憧れていた高輪台サウンドは健在でした。マーチは安定していますがややキズがあり惜しい演奏でした。自由曲は目の前に「響きの森」が見えてくるかのような素晴らしい作品であり、その魅力がしっかりと表現されていました。全国では更なる名演を期待しています。納得の代表。

 

2.八王子学園八王子高等学校(金代)

高輪台の後だったからかやや印象が薄れてしまったのですが、こちらも素晴らしい演奏でした。細かいミスは多かったものの、確かな基礎力に裏付けられた充実したサウンド感が良かったと思います。特に課題曲Ⅲは引き込まれる演奏でした。優雅な雰囲気が本当に良かったのですが、ワルツ特有の躍動感がもう少し出てくると良いかもしれません。自由曲はまだまだこれからです。ラストは原曲を尊重していて良かったです。

 

3.江戸川女子高等学校(銅)

課題曲Ⅳですが、指揮が叩きすぎることによってか、旋律がはねているような印象を受けました。リズム感も重要ですがフレーズ感を失わない演奏を期待したいです。自由曲の歌劇作品は美しいフレージングが好印象で、個人的には銅賞は厳しいなとも思いました。まぁサウンドという意味ではどこか曇った印象を受けたのも事実です。

 

4.都立小山台高等学校(銅)

課題曲Ⅲは演奏者の体の動きを使って美しい”アンサンブル”を繰り広げていましたが、基礎力の面で全体的に粗が目立っていました。自由曲の「サウンド・オブ・ミュージック」は挑戦的な選曲でしたが…もっと長生作品らしい揺らぎが欲しかった印象。と、そこそこ厳しいことを書きながらも、銅賞という結果からは見えてこない”熱量”を感じた演奏でもありました。高校の部の中では一番好みの演奏でした。

 

5.堀越高等学校(銀)

想像以上にしっかりと仕上がっていました。ただ、これといった印象が残る演奏ではなかったのも事実です。よくも悪くも「お利口な」演奏だったなと思います。もっと面白みのある曲なので曲想変化を更に研究してほしかったなと。

 

6.都立墨田川高等学校(銀)

課題曲Ⅲは悪くない演奏でした。余韻の使い方が上手だなという印象を受けました。自由曲は残念ながら何がやりたいのかよく分からない演奏でした。「吹奏楽のための協奏曲」は色々な団体の演奏を聴きましたが、下手なカットをつなぎ合わせると全体としての統一感に欠けて、何がしたいのか分からない演奏になりがちです。サウンド感はそこまで悪くなかっただけにもったいない印象でした。

 

7.明治大学付属明治高等学校(銀)

課題曲Ⅴについては吹いただけの印象が否めなかったのは残念でした。発音した瞬間の音程が歪むことが多かったのも惜しい。自由曲はシャブリエの「スペイン」というなかなか好みの選曲。丁寧に仕上げられており好印象でした。もう少し自由に演奏してもいいのではと思いましたが、曲想をよくとらえた快演だったと思います。

 

8.駒澤大学高等学校(金)

課題曲は駒澤らしい安定したマーチでした。好みの演奏。自由曲は「ワインダーク・シー」でしたが、テンポにかっちりとはめた丁寧な演奏が好印象でした。速く吹けばいいという文化には少々嫌気がさしていたので、個人的には今回のような演奏が主流になればと思う限りです。もう少しインパクトを作れると良かったかもしれません。

 

9.都立片倉高等学校(金)

ついに代表落ちという残念な結果に終わってしまいました。課題曲Ⅱに苦戦していた印象です。それでも本大会では全部門通して一番良い演奏でしたが。自由曲はぜひ全国で聴きたい演奏でした。シンフォニックな響きの美しい作品でしたがインパクトに欠けたのも事実で、くじ運が悪かったなという印象です。片倉高の演奏は上位大会ほど良くなっていくことが多いので今年もそれを期待していたのですが…何はともあれ、来年以降の復活に期待するばかりです。

 

10.東海大学菅生高等学校(金代)

課題曲Ⅴは高校の部の中では最も良い演奏だったと思います。サウンド感も抜群でした。後半の8分の5?からの音楽が好みでした。対して、自由曲「吹奏楽のための協奏曲」は目立つミスも多く、菅生らしからぬ演奏だったなという印象です。冒頭と最後のファンファーレはさすがの完成度でしたが、それ以外の部分でかなり事故が起きていたのでヒヤッとさせられました。全国では洗練された演奏になることを願うばかりです。カットの仕方が不自然なので直した方がいいとも思いましたが…(「協奏曲」に関してはよくわからないカットが横行しすぎなので、作曲者公認のカットとか作ったらいいのになぁと…)

 

11.関東第一高等学校(銀)

課題曲Ⅱはフレッシュな演奏でした。よくも悪くも”普通”の演奏でした。テンポ感の安定性がもう少し欲しい所です。自由曲の「ラフ2」は第3・4楽章の抜粋。まずはこの選曲に対して敬意を表したいと思いました。クラリネットのソロは一生懸命な演奏でした。4楽章最後のテンポはやや遅かったかなと思いますが総じて美しい演奏でした。原曲の管弦楽版と比べて物足りなさは感じましたが、吹奏楽でもこの曲の良さを感じることはできますし、このようなクラシック作品がもっと演奏されてもいいのに…と感じるばかりです。

 

12.岩倉高等学校(金)

課題曲Ⅴはやりたいことがはっきりと見える演奏でしたが、菅生に比べるとやはり見劣りしたのも事実です。後半のお祭りの雰囲気はとても素敵でした。自由曲はヴェルディの「レクイエム」でしたが、音楽的にもサウンド的にも洗練されており、とても良い演奏だったと思います。クライマックスが不明瞭で最後のインパクトが足りなかった印象でした。今後に期待です。

 

★総評

・音楽の完成度よりもサウンド感を重視した結果だなという印象です。音楽の説得力を高めるために「サウンド」を強化することは大切ですが、”良いサウンドに聴こえる”選曲ばかりになっているのはつまらないところです。

 

偉そうに書かせて頂きました。部活問題を追っている身として、今回のコンクールを通して感じたことが沢山ありましたが。それはまた後日ゆっくりと。

 

★さいごに

このままのコンクールでいいのでしょうか?

音楽の”勝利至上主義”(市場原理)は必ずしもいい方向に向かっているとは言い切れないのではないかと。そう言わざるを得ないなと。僕はそう思います。

ただ、一生懸命にやっている高校生の気持ちを踏みにじるような部活改革はダメだとも改めて痛感しました。

これからは更に現場を見ながら勉強を重ねていきたいと思います。

吹コン都大会鑑賞記(1)

第58回東京都吹奏楽コンクール(都大会)を観に行きました!

本日は職場・一般の部と中学校の部を鑑賞。都大会というだけあり、どの団体も非常にハイレベルな演奏を繰り広げていました。全国に出場される団体の皆様、おめでとうございます。

本日の日記はコンクールで印象に残った団体の感想を書いていきたいと思います。

 

【職場・一般の部】

2.創価グロリア吹奏楽団(金代表)

ずっと憧れていたバンドの一つ。余裕を感じる演奏でした。自由曲の「ローマの祭」のクライマックスが12分を通して最大の盛り上がりになるように全体を通して計算されており、音量バランスもしっかりと整理され、まさに”大人の”演奏。ハーモニーもほとんどの部分でぴったりとハマっていました。

 

6.おそきウインドアンサンブル青樹(銀)

(大変申し訳ないことに)今回のコンクールではじめて知った団体です。自由曲の「GR」がたいへん自分好みの演奏でした。フレーズの作り方が、心地よかったと感じます。サウンドが良くても、ただ音が並んでいるだけの団体もある中で、フレージングの素敵な演奏に出会えたことは本当に嬉しさでいっぱいです。曲想の転換もスムーズで、曲の世界観にぐっと引き込まれました。緩急のつけ方がとても参考になりました。

 

7.早稲田吹奏楽団(銀)

高校の同期が出演していました。個々の技量は決して低くないのにどこかまとまりに欠ける要因は最後まで分からず。課題曲Ⅴの後半は若くアグレッシブな演奏だったなと思います。自由曲「バラッド」はスピードの緩急を大げさにつけた印象。細かい音も吹きこなしていましたが、フレーズは流れ気味だったかな。よくも悪くも「若い」演奏でした。

 

10.デアクライス・ブラスオルケスタ―(金)

佐川先生のバンドを生で聴くのはなんだかんだ初。よくも悪くも佐川先生のバンドだなという演奏でした。マーチも天野作品も、CD等で繰り返し聴いてきた佐川バンドお決まりのパターンだったとはいえ、生で聴くとやはり迫力があります。歌いこみ方など参考になることがたくさんありました。個人的には最も好きだった演奏。

 

★総評

・(上位団体も含めて)課題曲の余韻を無視した演奏が多かったです。音楽の流れを無視したカットもかなり気になりました。時間の制約があるのだから仕方ないと言われても、それが音楽を壊していい理由にはならないのでは?

・課題曲Ⅴは何をやりたいのか分からない団体ばかりでした。もう少し工夫のある演奏が聴きたかったかも。

 

【中学校の部】

2.玉川学園中学部(金)

個人的に一番好きだった演奏です。課題曲Ⅱはまとめにくいのか苦戦していた印象でした。自由曲の「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」は熱い選曲。特にクラリネットのソロ上手い。ただ、全体的に発音におけるミスが目立っていたようにも思います。

 

3.小平市立小平第六中学校(銅)

サウンド感などを考えれば納得の銅賞です。少人数のため頑張りすぎたのか、力んだり発音ミスが多かったのはもったいなかった…しかし、指揮者に引っ張られて演奏する団体が多い中で、個人個人が一生懸命に音楽をしようとする姿は素敵でした。結果を見ただけではわからない良さを持った演奏だったと思います。

 

8.羽村市立羽村第一中学校(金代)

圧巻の「ルイブル」でした。コラールは小節の区切りでぷつっと切れることがありもったいないなと思いました。指揮は非常にシンプルですが、表現したいことが見えてくる演奏でした。どれだけの練習をしたらここまで吹きこなせるのでしょうか…

 

9.小平市立小平第三中学校(金代)

羽村一中に比べて、落ち着いた課題曲・自由曲だったからか印象は薄めでした。安定して”巧い”なという演奏です。課題曲Ⅲは全体的に見るとワルツの音楽の流れをしっかり守っていましたが、細かい音になったり、テンポが落ちたところは要修正だなという印象です。自由曲も含め、もう少し要所でのインパクトが求められるでしょう。「あー上手かったよ」という感想しか出てこないのは残念です。

 

★総評

・しっかりと楽器を鳴らそうという団体が多かったのですが、(特に金管セクションで)主旋律を作る1stの音が2nd以下の音にかき消されてしまうことが気になりました。何を一番聴かせるべきなのかをしっかりと考えた演奏が増えるといいなと。

・強奏になるとすぐパワー全開の団体が多かったですが、(適度な緊張感を保ちつつも)少しはホッとさせてほしい演奏がいくつもありました。例えば、f(フォルテ)とff(フォルティシモ)の差を考えてみるとか、同じffでも差をつけるとか、ダイナミクスの工夫があるといいのかも?

 

偉そうに書かせて頂きましたが、どの演奏も本当に素敵な演奏でした。余裕があれば全団体メモが残っているので追記していきます。

さて、次回は大学の部と高等学校の部を書いていきます。

貧賤抄(山村暮鳥 / 信長貴富)

無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より
2.貧賤抄
詩:山村暮鳥 曲:信長貴富

こがらし
こがらし
ひかりきらめくめ
いのちのめ
あみをはるのめ
こがらしのなかのめ
ひとつめ
そのつぶら
にくたいのくりすますに
これがにくしみのおくりものだ。

*”くりすます”には傍点がつく 

 『貧賎抄』について

『新潮』第24巻第4号(大正5年4月)にて発表。詩選集『穀粒』(大正10年7月・隆文館)の中の「昼の十二時その他」に収録。『山村暮鳥全集』(平成2年・筑摩書房)では「拾遺詩篇」として収録されている。

詩を読む

まずタイトルとなっている「貧賤抄」の意味を見る。

貧賤(ひんせん)

貧しくて身分が低いこと。また、そのさま。⇔富貴。

出典:デジタル大辞泉小学館

「抄」は「智恵子抄」などに使われているものと同じ意味だろう。辞書的には「長い文章の一部を抜き出したもの」というような意味の語である。合わせて「貧賤について短くまとめた詩」くらいの意味で良いかと考えられる。ちなみに信長貴富がつけた英語タイトルは「A Little Metaphor for Poorness」であり「貧賤についての少しの隠喩」と直訳できる。

ひらがな詩

第一印象として、すべてひらがなであることは気になる。ひらがなにすることの意味としては、田中(1988)が「全体をひらがなにすることによって漢字の持つ意味性を排除し、読者はまず詩のリズムに触れることになる。」と述べ、さらに「詩人はひらがな書きによって、それ(筆者注:意味を追い、内容を理解することを急ぐこと)を拒否し、リズムを追い、詩的イメージとリズムを切り離しがたいものとして干渉することを要求する。」としている。詩の形象化を重視した当時の暮鳥の作風が色濃く反映された作品であるといえる。

語の意味をとらえる

詩はいわゆる暮鳥の「聖ぷりずみすと」時代にかかれたものであり、意味的な解釈のアプローチで深めていくのは難しい(或いは無意味)と考えられるが、情景理解の助けとするために、ことばの意味も捉えておきたいと思う。

 

こがらし:冬の到来を告げる強い北風
つぶら:まるくて可愛らしい瞳
くりすますイエス・キリストの降誕と祝う祭。プレゼント(おくりもの)を交換する風習がある。

 

曲を読む

まずは、曲を大きく3つに分けて詩の展開を確認する。

~D

こがらし
こがらし
ひかりきらめくめ
いのちのめ
あみをはるのめ
こがらしのなかのめ
ひとつめ
そのつぶら

冒頭は「こがらし」をモチーフにしたスタッカートの音型で始まる。どちらかといえばこがらしの意味よりも「こ」「が」「ら」「し」という文字の響きを重視して作曲されている印象を受ける。そのいわば「スタッカートこがらし」はCの直前まで続いていく。尚、6小節目からはテナー系の2パートで「ひかりきらめくめ~こがらしのなかのめ」までの旋律が歌われている。Cからは「ひとつめ/そのつぶらめ/きらめくいのちのひとつめ/つぶらめ/こがらしのなかのめ」といった詩がアクセント中心でかなり強く歌われる。30小節目になると「スタッカートこがらし」が再開する。

E~G

こがらし
こがらし
ひかりきらめくめ
いのちのめ
あみをはるのめ
こがらしのなかのめ
(きらきら)

EはAと似たように進行する。Fに入ると「ひかりきらめくめ」特に「きらめくめ」をcresc.を伴いながらひたすら繰り返す。そしてGに入ると、まず「こがらし」がベルトーン的に歌われる。アクセントとスタッカートという変化をつけて2回歌われたのちに『雪景』でも見られる、原詩にない「きらきら」という詩が始まる。この場合は「きらめくめ」からのインスピレーションだろう。

H

にくたいのくりすますに(こがらし)
これがにくしみのおくりものだ。

Hに入るとTuttiで「にくたいのくりすますに」と歌われる。特に「くりすますに」は三回にわたって歌われるのでかなり強調されている。52小節目からはアクセントの音型で「こがらし」と歌われる。56小節目から「これがにくしみの/おくりものだ/おくりものだ」という詩が歌われ、幕を閉じる。

全体を通して

本作品も『雪景』と同様、音画的な作品であり、まさに「音のカタチを映像的に見せていく曲」であると考えられる。前述した通り「こがらし」という”風”を表現するのにあえてスラーなどではなくスタッカートを使用しているのは、「こがらし」という語の響きを重視しているからではないかと推測される。また、詩はmetaphorであり、直接の意味を考えるのではなく、何を例えたものなのかという方向からのアプローチが必要ではないだろうか。

 

以上で、無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より『貧賤抄』の解説を終わる。(2018.8.7)

雪景(山村暮鳥 / 信長貴富)

無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より
1.雪景
詩:山村暮鳥 曲:信長貴富

山はぷりずむ
山山山
山上さらにまた山
雪のとんがり
きららかに天をめがけ
山と山とは相対して
自らの光にくづれつ
雪の山山
きらりもゆる雪山
山山のあひだに於て
折れたる光線
せんまんの山を反射す

 『雪景』について

『文章世界』第11巻第4号(大正5年4月)にて発表。死後に発表された詩集『黒鳥集』(昭和35年1月・昭森社)に収録。詩集には「雪景」というタイトルの詩が3つ連続して掲載されており、この詩はその中の1つ目の作品。残り2つの「雪景」を参考までに以下に掲載する。

直線曲線
雪雪雪
ゆきがらす
雪雪
をんなのめ
みつめるかほがめになり
めはひとつ
かずかぎりなく
曲線直線
雪雪雪
うづまくめ
もえあがるめ

*『詩歌』第6巻第5号(大正5年5月)にて発表。

まよなか
地上一面白金光
ゆき
ゆきだるま
まよなか
まはだか

 *『詩歌』第6巻第6号(大正5年6月)にて発表。

詩を読み解く

「ぷりずむ」と暮鳥

まずは「ぷりずむ」(以下”プリズム”と記載)の意味を確認する。

プリズム(prism)

よく磨かれた平面をもつ透明な多面体。ガラスなどから作られ、三角柱のものなどがあり、光を分散・屈折・全反射させるために用いる。三稜鏡。

出典:デジタル大辞泉小学館

一般的にプリズムといわれると三角柱のものがイメージされる。「山はぷりずむ」という詩は三角形の山をプリズムに見立てたのだと考えられるわけだが、ここではもう少し踏み込んで考えてみたいと思う。

暮鳥の第2詩集は『聖三稜玻璃』(せいさんりょうはり)であり、この詩の発表される5か月前に刊行されたものである(大正4年12月)。この「三稜玻璃」というのがプリズムである。更にこの詩集の序として室生犀星は「聖ぷりずみすとに与ふ(*”ぷりずみすと”に傍点)」と書いている。暮鳥自身も「わが詩はぷりずむの聖霊」と述べている。

聖霊(せいれい)

キリスト教で、父なる神、子なるキリストとともに三位一体を形成する第三の位格。人に宿り、啓示を与え、聖化へと導く。助け主。慰め主。

出典:デジタル大辞泉小学館

この言葉をどのように解釈するかは難しいが「聖霊」という超越的な存在と「プリズム」による一種の”科学的”とも言うべき目を併せ持っていると考えられる。だからこそ新鮮な物質感や形象・本質といったものを見出すことができるのだろう。このような詩法はフランスの詩人、シャルル・ボードレールのものに源泉を見出せると多くの研究者が指摘している(関川(1982)、田中(1988)など)。

余談だが、プリズム(山)は「三」角形、聖霊が「三」位一体の位格の一つという所にも共通点がある。三という数字はキリスト教に限らず東洋的思想も含め特別な数字とされてきた。よく詩を見返してみると、2行目は「山山」ではなく「山山山」である。(8・12行目の「山山」はいわゆる「山々」という名詞的に用いられている。)この「山山山」という独立した部分はあえて三字にしたのではないかと推測される。

さて、話を戻していく。前述したように、プリズムは暮鳥と深いかかわりがあり『聖三稜玻璃』の前後の時期における暮鳥の詩を象徴するものである。プリズムはこの時期の山村暮鳥という詩人そのものと言っても過言ではない。だとすれば、この雪景という詩は暮鳥自身を「山」という存在に重ねて、自らを客観視していると考えることもできるだろう。或いは「山」というのを「詩人」と捉えて解釈することもできるかもしれない。

意味的な解釈は詩を読んでいく上で重要なポイントの一つである。しかし暮鳥の場合には意味的解釈に踏み込む前に、この時期の暮鳥の作風を理解する必要がある。結論から言ってしまえば、この時期(『聖三稜玻璃』前後)の彼の詩への意味的な解釈によるアプローチは実際のところ困難あるいは無意味である。詳しくは次項へ。

『聖三稜玻璃』の詩風

ここでは『聖三稜玻璃』の時期の暮鳥の作風について、できるだけ簡潔に説明していく。

詩集発行の前年(大正3年)に暮鳥は、萩原朔太郎室生犀星と共に「人魚詩社」を結成した。対外的には「詩と宗教と音楽の研究」を目的としながら、内実としては新たな詩法の確立を目指すものだった。ここでいうところの新たな詩法だが、暮鳥の場合には「言葉に非ず、音である。文字に非ず、形象である。それが真の詩である。」という彼の言葉にも表れる通り、形象化を重視していた。これは確かに新たな詩法ではあるが、彼が影響を受けたボードレールの「韻律を踏まないでしかも音楽的節奏を感銘づける」詩法への接近ともいえる。

このようにして刊行された『聖三稜玻璃』に収められた詩篇はまさに当時の詩壇に対する挑戦であった。この詩法について山村暮鳥研究の第一人者である和田義昭氏は山村暮鳥全集(1990・筑摩書房)第1巻解題にて「従来の詩語の持つ意味的連続性を打破したもので、イメージそのものの提示、あるいはイメージ同士の結合、衝突を狙ったものと見える。詩集中にちりばめられたイマジネーティブな表出、倒錯、あえて均衡を無視したアンバランスな叙述等は近代詩における最初の前衛的詩法の開示であり、口語詩に新たな可能性の道を切り開いたものである。」と述べている。しかしこの詩法は理解されず、詩壇からは酷評を受けた。

翌年(大正6年)には暮鳥の詩風が変化していることが詩壇でも注目されており、次の刊行詩集『風は草木にささやいた』(大正7年11月)では、『聖三稜玻璃』の頃の詩法を完全に放棄し、汎神論的自然観を取り入れた人間賛歌的な詩風の作品となっている。

つまり『雪景』はいわゆる「ぷりずみすと」であった暮鳥の詩風が放棄される直前の詩であり、意味よりもイメージや形象的な部分が重視された詩であると考えられる。ゆえに意味的解釈を深めることにはあまり意味がない。この時期の暮鳥は、(自らの)詩を論理的に理解しようとすることを否定したこともあるという。強引に意味的解釈をしようとすることは暮鳥の意思にも反することになるだろう。

 

曲から詩を読む

この曲は音画(自然現象や風景などを、音によって絵画的に表現した楽曲)的な作品であり、作曲者本人の解説にある言葉を借りるならば「音のカタチを映像的に見せていく曲」となっていると考えられる。

まずは、練習番号ごとに用いられているテキストとその使われ方を詳説する。

~A

山はぷりずむ
山山山
さらにまた山

冒頭はTuttiかつUnisonで「山はぷりずむ」と歌われる。4小節目から「り」にアクセントが置かれるようになり、「ぷりずむ」と「りずむ」が共存し始める。7小節目になると、セカンドが8分音符のスタッカートの音型で「山」を歌い始める、「ぷりずむ」を歌うパートはなくなり「りずむ」のみが歌われる。10小節目からは「山」がなくなる代わりに、音型のみを引き継いで「りずむ」が歌われる。16小節目になると「りずむ」がなくなり「山山山」という詩がパートごとに順に始まる。

Aの冒頭はこだまのように「ま」のみが裏拍で歌われる。20小節目になると「や」も歌われ始め「山」という単語が”分業して”繰り返し歌われる。21小節目になるとトップテナーが「さらにまた山」というフレーズを歌い始める。(原詩の”山上”は作曲されていない)24小節目にTuttiで「山」と歌い、2拍目からベルトーンで「ぷりずむ」と歌う。

B

雪のとんがり
きららかに天をめがけ
山山山

Bからは「雪のとんがり/きららかに/雪のとんがり/天をめがけ」とメロディックに歌われる。その後、30小節目からの「ま」のみ裏拍で歌われる部分を経て、31小節目4拍目からは、Aとは異なる音程で「山山山」という詩が”分業して”繰り返し歌われる。34小節目になるとやはりTuttiで「山」と歌ってBは幕を閉じる。

C

山と山とは相対して
自らの光にくづれつ
(きらきらきら)

Cの冒頭は「山とは」というフレーズをベースが2声部にdiv.して交互に歌って「山と山とは」という詩を表現する。37小節目からはベース以外の3パートが「相対して/対して/自らの/光にくづれつ/光にくずれつ」とタイミングをずらして歌う。43小節目からはベースが「光」というテキストに移行し、44小節目からはベース以外が「きらきらきら」と歌い続ける。この「きらきらきら」は原詩にないが「きららか」或いは「きらり」といった語から作曲者がインスピレーションを受けて付け足したのではないかと推測される。47小節目に「山」とTuttiで歌われてCは幕を閉じる。

D

もゆる雪山(きらきら)
山山のあひだに(きらきら)
折れたる光線
せんまんの山を(きらきらきら)

原詩の「きらり」「於て」は作曲されていない。楽譜には記載されていないが、おそらく「雪の山山」も作曲されていない。Dの冒頭は拍子を変えながら「もゆる雪山」がTuttiで歌われる。「きらきら」が波のように歌われ「山山の」というテキストが現れた後、52小節目は「あひだに」とTuttiで歌われる。再び「きらきら」を経て54小節目からは「折れたる光線」という詩がパートごとにタイミングをずらして歌われる。58小節目になると「せんまんの山」とTuttiで歌われ、「山」というテキストがファンファーレ的に輝かしく歌われる。63小節目に「を」と歌われると再び「きらきらきら」と歌われる。65小節目からは「きら」というテキストとして歌われ、66小節目にTuttiで「きら」と歌ってDは幕を閉じる。

E

山を反射す
山はぷりずむ

「反射す」とTuttiで歌われた後、「きらきらきら」が波のように歌われ、69小節目からは「山を反射す」とベースが、70小節目からは「山を山を」とバリトンが歌う。72小節目になると冒頭の「山はぷりずむ」がトップテナーによって歌われ、74小節目からはエコーのように「りずむ」とベルトーン的に2回歌われて幕を閉じる。

全体を通して

まずは「山はぷりずむ」というテキストを上手に利用して「りずむ」という言葉を浮かび上がらせていることから、作曲者の遊び心を感じ取ることができる。非常に面白いと感じるがいかがだろう。ちなみに、暮鳥は詩作の要素として「リズムと発見(創造)とイルミネエシヨン」を挙げているが、同時にリズムを「得体の知れないもの」とも表現している。ちなみに後半は「きらきら」というフレーズが繰り返されるのだが、なんとなく「イルミネーション」のようなものを感じ取れるのは偶然だろうか…?

AやBに見られる「山山山」やCの「きらきらきら」は音がクラスター的(密集)でありどこか”効果音”的な印象を受ける。一方でDとEの「きらきら」「きらきらきら」は音程的にはUnisonであり、一本の線が波のように流れているような印象を受ける。

 

以上で、無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より『雪景』の解説を終わる。

(2018.7.26)

 

*引用文献・参考文献

山村暮鳥(1990)山村暮鳥全集(全4巻) 筑摩書房
平輪光三(1976)山村暮鳥・生涯と作品 崙書房
田中清光(1988)山村暮鳥 筑摩書房
堀江信男(1994)山村暮鳥の文学 筑波書林
北川透(1995)萩原朔太郎〈言語革命〉論 筑摩書房
関川左木夫(1982)ボオドレエル・暮鳥・朔太郎の詩法系列 昭和出版
佐藤泰正(1997)日本近代詩とキリスト教:佐藤泰正著作集⑩ 翰林書房
日本文学研究資料刊行会(1984)近代詩:日本文学研究資料叢書 有精堂
和田義昭(1968)山村暮鳥研究 豊島書房

光明頌栄(山村暮鳥 / 信長貴富)

無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より
4.光明頌栄
詩:山村暮鳥 曲:信長貴富

主は讃(ほ)むべきかな
土からはひでた蛆虫(うじむし)のおどろき
主は讃むべきかな
土からはひでた蛆虫のよろこび
主は讃むべきかな
土からはひでた蛆虫のなみだ
そらのあをさにかぎりはない
天(あま)つ日のひかりのなかを
これからどこへ行かうとするのか
蛆虫よ
だがみかへるな
その来しかた
そこにおのづからなる道がある
ただ一すぢの無始無終の道がある

『光明頌栄』について

『詩歌』第4巻第7号(大正3年7月)にて発表。『黒鳥集』(昭和35年1月・昭森社)の最初に収録。『黒鳥集』は生前に暮鳥自身によって編集されていたが未完に終わったためかなりの時が経ってからの刊行となった。

 

解釈にあたって

当時の暮鳥の作風

『光明頌栄』が発表されたのは、第1詩集『三人の処女』の刊行1年2か月後、第2詩集『聖三稜玻璃』の刊行の1年5か月前であった。また発表が、萩原朔太郎室生犀星と共に人魚詩社を設立した時期(大正3年6月)とほとんど重なっているため、まだまだ形象化を強く打ち出す新たな詩法は確立しきっていないと考えられる。しかし、シャルル・ボードレールをはじめとした海外の詩人の作品に触れたことで、第1詩集の頃とはかなり異なる詩を書いている。詩人の藤原定は、この時期の暮鳥の作風を「立体的、天地・内外倒錯的詩法」と呼び、新奇な詩体の作品を多く作っていたと述べている。

語の意味を確認する

・光明【こうみょう】…暗闇を照らす明るい光、また将来への明るい見通し。

*仏教では、仏・菩薩の心身から発される光という意味の仏語として使われる。

・頌栄【しょうえい】…キリスト教の様々な典礼における三位一体への賛美において歌われる賛美歌、唱えられる祈祷文のこと。

・蛆虫【うじむし】…ハエの幼虫。一般には腐肉や汚物などに発生する(わく)。

追記(7.24)

蛆虫はこの曲の中では「(ある意味で)汚い物」を象徴していると考えられる。そんな蛆虫が土から這い出て、光を浴びて、無始無終の道を行くという話に対して「主は讃むべきか」と言っているのだろう。

・天つ日【あまつひ】…天の日。太陽の光(=天日)と予想される。

・無始無終【むしむしゅう】…始めも終わりもなく、限りなく続いていること。(仏教用語では輪廻が無限であることをいう)

Gloria Patri

光明頌栄には「Gloria Patri」という訳が与えられている。Gloria Patri はキリスト教の様々な典礼における三位一体の賛美において歌われる賛美歌である。

ラテン語の詩としては

Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto.
Sicut erat in principio, et nunc, et semper, et in saecula saeculorum. Amen.

が大変有名である。

尚、この曲の中でも随所に「Gloria」という言葉が挟み込まれている。Gloriaという言葉だけの意味としては「栄光」といったところ。

解釈例

田中(1988)は『光明頌栄』について「土から出た蛆虫という暗喩で、蘇生のおもい、新天地を見出したおどろき、よろこびが歌われ、「ただ一すぢの無始無終の道」へ向かうことが書かれている」と述べている。この頃から、晩年の暮鳥を象徴する「汎神論」の特徴が詩にみられている。

曲を読む

詩は次のように流れていく

主は讃(ほ)むべきかな
主は讃(ほ)むべきかな
土からはひでた蛆虫(うじむし)のおどろき
蛆虫のよろこび
主は讃むべきかな
土からはひでた蛆虫のなみだ
主は讃(ほ)むべきかな
主は讃(ほ)むべきかな
そらのあをさにかぎりはない
天(あま)つ日のひかりのなかを
これからどこへ行かうとするのか
だが蛆虫よ
みかへるな蛆虫よ
その来しかた
そこにおのづからなる道がある
ただ一すぢの無始無終の道がある
道がある 道が 道が

前述した通り、この詩に「Gloria」という言葉が繰り返し挿入される。

練習番号Aには「Allegretto pomposo」とある。Allegrettoは速度標語「やや急速に」。pomposoはイタリア語で「豪華な・壮麗な」といった意味である。練習番号Gの1小節前にはbrillante(輝かしく)という音楽用語も書かれており、明るく輝かしく歌うことが必要である。

 

以上で無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より「光明頌栄」の解説を終わる。(2018.7.24)

じゆびれえしよん(山村暮鳥 / 信長貴富)

無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より
7.じゆびれえしよん
詩:山村暮鳥 曲:信長貴富

泥醉せる聖なる大章魚
そらに擴(ひろ)げた無智の足
官能の高壓(こうあつ)的なからくりに
マリヤ・マルタは
はんかちいふを取り出し
なみだを絞る
晝(ひる)の十二時
盲目なる大章魚(おおだこ)の礫刑(はりつけ)
毛のない頭蓋を直立させ
三鞭酒(しやんぺん)の脚杯(さかづき)ささげ
もぐもぐ何か言ふさうなが
なにがなにやら
あはれ晝(ひる)の十二時

『じゆびれえしよん』について

『秀才文壇』第16巻第1号(大正5年1月)にて発表。山村暮鳥全集(筑摩書房・1990)においては拾遺詩篇に収録されている。山村暮鳥全詩集(弥生書房 1964)においては「昼の十二時」に収録されている(筆者は未確認)。 

解釈にあたって

制作当時の暮鳥の作風

発表が大正5年1月と『聖三稜玻璃』の刊行直後であることを考えると、『聖ぷりずみすと』として多くの詩を生み出した時期の詩風であると考えられる。しかし、『1.雪景』や『2.貧賎抄』とは異なり、これだけ漢字を多用し、難解な語も多く用いている以上、意味的連続性を打破してイメージに頼っているとは考えにくい。

語の意味

・章魚【たこ】…キリスト教世界では守銭奴の象徴とされる。西洋では好色のシンボル。

ちなみに「大章魚」が神話に出てくる生物であるという可能性も考えられる。詳しくは以下のリンクを参照。 アッコロカムイ - Wikipedia / 大章魚 | オオダコ | 怪異・妖怪伝承データベース

・官能【かんのう】…生物の諸器官、特に感覚器官の働き。また肉体的快感、特に性的感覚を享受する働き。

・マリヤ・マルタ…新約聖書に登場する女性の姉妹。キリストの親友だった。詳しくは→マリア (マルタの妹) - Wikipedia

・はんかちいふ…handkerchief(英)。ハンカチ。

・なみだを絞る…(絞るほど)たくさん涙が出てしまうこと。

磔刑【はりつけ】…一般的には罪人を柱などに縛り付け、槍などを用いて殺す公開処刑のこと。キリスト教では新約聖書にも書かれているイエス・キリストの十字架刑が有名。詳しくは→キリストの磔刑 - Wikipedia

三鞭酒【シャンペン】…シャンパ

キリストの磔刑とじゆびれえしよん

テキストはかなり難解なようにも思われるが「昼の十二時」「マリヤ・マルタ」「磔刑」といった言葉から推察するに、キリストの磔刑のパロディ作品ではないかと思う。詳細はWikipediaあたりを参照。→キリストの磔刑 - Wikipedia

キリストの磔刑において「昼の十二時」は大きな意味を持っている。聖書では「イエスを十字架につけたのは朝九時ごろ。昼の十二時ごろになると、全地は暗くなり三時に及んだ。そして叫びをあげてキリストは息を引き取った」という旨の記述がある。(詳しくはこちらのサイトを参照→http://www.ne.jp/asahi/jun/icons/theme/crucifix.htm)すなわち「昼の十二時」は、全地が暗くなる時刻、死を目前にした暗黒の時間の始まりと考えられる。

関係を整理すると、大章魚→キリストであることは疑いがないだろう。大章魚は「泥酔」した「聖なる」大章魚であり「無智の足」を持っている。後半では「盲目」で「毛のない頭蓋」という特徴がかかれている。聖書に盲人は何人も出てくるが、キリスト自身が盲目だったという事実はない。ここでは、昼の十二時になり暗黒を迎えたことで「盲目」と考えると自然だろうか。「毛のない頭蓋」についてはキリストのことか「大章魚」のことかはっきりとは分からない。

暮鳥の生命観と「無智」

当時の暮鳥は、人間は理智のために生命の本質から遠ざかった存在であると考えていた。暮鳥の生命観を以下に示す。

・生命の本質は不可見であるが、個体において、つまり個々の生物の形において、可見的であるとする論に対して、個体と本質とは相即不離の関係にあるのだから、個体に顕現する個体の本質が生命の本質を象徴するということ。
・人間においては、理智というもののために、生命の本質が個体を通して顕現してこない、つまり理智のために、生命の本質を象徴すべき人間の本質が顕現しにくい

このような生命観の中で「無智」という言葉は大きな意味を持つ。すなわち「無智」であることは、生命の本質に近い存在であるということである。

 

楽譜を読む

ソロを中心として曲は展開していく。詩の流れを確認すると以下のようになる。

泥醉せる聖なる大章魚
そらに擴(ひろ)げた無智の無智の無智の足
官能の高壓(こうあつ)的なからくりに
マリヤ・マルタは
はんかちいふを取り出し
なみだを絞る
晝(ひる)の十二時
晝(ひる)の十二時
なにがなにやら
あはれ晝(ひる)の晝(ひる)の十二時
盲目なる大章魚(おおだこ)の礫刑(はりつけ)
毛のない頭蓋を直立直立直立させ
三鞭酒(しやんぺん)の脚杯(さかづき)ささげ
もぐもぐ何か言ふさうなが
なにがなにやら
なにがなにやら
晝(ひる)の十二時
晝(ひる)の十二時
なにがなにやら
あはれ晝(ひる)の晝(ひる)の十二時
晝(ひる)の晝(ひる)の十二時
あはれ 

注目すべきは繰り返すことによって強調されている言葉である。「無智の」「直立」といった言葉も気になるが、やはり最も強く主張されているのは「晝(ひる)の十二時」である。この時間については先述した通り、キリストの磔刑において全地が暗くなる始まりである。

ちなみに大章魚の描写はBassソロ、周りの描写はTenorソロ、そして「晝(ひる)の十二時」を残酷に歌うのがtuttiというように分担がはっきりなされていると解釈可能である。

タイトルの「じゆびれえしよん」(Jubilation)という言葉の意味は英訳すれば「歓喜・喜び」といったところだが、ラテン語を辿ると「叫び」(jubilant)というような意味もある(基本的には「歓喜の叫び」という意味であるが)。磔刑のパロディについての詩と考えるのであればかなり皮肉のこもった詩である。

 

最後に簡単に楽典的な部分に触れておく。使われている音楽用語「Grandioso」は「壮大に」という意味である。fffとはいえ押し付けた響きではなく「壮大に広がっていく」響きが求められる。

(楽典の知識は浅いためあまり深いことは言えないのだが)練習番号Cあたりからのコード進行も非常に重要である。実は練習番号A・Bは短調が支配していたが、練習番号Cは長調が支配しているという所には注目しておきたい。暗黒なのに……笑

 

以上で、無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より「じゆびれえしよん」の解説を終わる。(2018.7.29)