(雑文)夏の想い出①

中高6年間ずっと吹奏楽部だった私にとって「夏」はコンクールに向けて音楽を追求する季節であり色々な想い出がある。

今年の夏はどんなことがあったか。ふと振り返ってみた。

 

7月中旬。

お世話になっている某団体にて多田武彦先生の作品をたくさん歌った。あまり取り上げられていないマニアックな作品にも取り組んだ。その時の感想は以前にブログでまとめた。

有機的某演奏単位の発表会を終えて - Londaの音楽日記

 

8月中旬。

四大学ジョイントコンサートに参加。他大学との交流は非常に勉強になることが多かった。丁寧に振り返ってみたいと思う。

単独ステージは、無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」(山村暮鳥/信長貴富)を演奏。いま考えても9人で最大8声部の作品を歌うのは、随分と攻めた選曲だったなと思う。例年は、Barbershopの作品に取り組んでいたので「今年はbarbershopじゃないの!?」という声もたくさん頂いた。わざわざこの選曲をした意味はあったのか。個人としてはこの作品に触れたことで本当に多くのことを学んだ。山村暮鳥について研究し、楽譜を何度も読み込み、表現法について考え続けることにも取り組めた。しかし、団全体として見れば…あまりそういった意義は感じることが出来なかった。音とりの先にあることが面白いのにそういった部分には到達できなかった。ただ、それがコンクールなどには参加していない大学のサークルの限界なのかもしれないと感じた。自分がやりたいことをやるためには外部に行くしかない。今はそう感じている。今回は自分が全体の仕切りを担当していたが、次回からはあまりやりたくないところだ。

合同ステージは「ロシア民謡集」を日本語で。普段なかなか触れることのない選曲に刺激を受けた。指揮者の先生からは、”他人と合わせにいかない”ということ、”自分の意志をもって歌う”ということ、そして”音楽は楽しい”ということ。当たり前のことでもありながら、本当に多くのことを学んだ。本番の演奏は各自が意志を主張しすぎてバラバラな部分があったが、まぁ、それもまた音楽なのかな。そう感じている。

 

余談だが、私は音楽の完成度に四つの段階があると考えている。

一段階目が「楽譜通りに正確に演奏できる」、二段階目が「(指揮者に引っ張られて)表現をつけている」、三段階目が「自分から意図的に表現をつけている」、そして四段階目が「表現をつけずにはいられなくて表現をつけている」

この中で三・四段階目に達することが目標になるのではないかと感じる。とはいえ、表現なんて曖昧なものであり、同じ演奏でもいいと思う人もいれば悪いと思う人もいる。(だからコンクールの結果に納得がいかない人がいるのは当然だと思う。)それに、技術を磨くことは表現の説得力を高めるために重要だし、表現がどうのこうのという理由で技術向上を軽視してはならない。しかし、中高時代を振り返った時に三・四段階目に達せたかと言われると疑わしいし、先日拝聴した吹奏楽コンクールでもあまり表現に工夫の見られない団体が(上位団体でも)みられた。音楽の歓びは「難しい曲を頑張ってできるようになりました」ではなく「この曲を今できる限界まで研究しもうこれ以上ないほどこの曲を味わいました」になった方がいいのではないかと感じる。別に難曲をやることを絶対的に否定するものではないが。レベルは考えるべきだ。

 

話がそれた。今回の合同ステージでは二段階目と三段階目の間くらいまで行けたのではないかと感じる。ここで注意すべきなのは、真の意味での「意図的な表現」は、「自分が歌いたいように歌う」ではなく「確固たる意志をもって意図的に表現する」という意味であり、自分勝手な音楽を奨励するものではない。空気は読むべきだ。

そんなこんなで学ぶことが多いと同時に考えさせられることも多いジョイントコンサートだった。

また、今回の遠征で北原白秋の故郷を訪れることもできた。そういった意味では本当に多くの収穫があったと感じる。

 

夏の想い出。続きは後日。