りんごよ(山村暮鳥 / 信長貴富)

無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より
6.りんごよ
詩:山村暮鳥 曲:信長貴富

 

本作品は『りんごよ』の詩に加えて『薄暮祈り』という詩が部分的に使われているのでまずは両方の詩を取り上げる。

詩(りんごよ……)

りんごよ
りんごよ
りんごよ
だが、ほんたうのことは
なんといつてもたつた一つだ
一生は一つのねがひだ
一生の一つのねがひだ
ころりと
こつそりわたしに
ころげてみせてくれたらのう
りんごよ

『りんごよ……』について

未定稿。制作時期は大正2年〜6年頃と推定。死後に刊行された詩集『万物節』(昭和15年12月・厚生閣)1章に収録。百田宗治によって編纂された。尚、楽譜上では「……」は表記されていないが、ここでは原詩を尊重して表記する。

 

詩(薄暮祈り

此のすわり
此の静かさよ
而もどつしりとした重みをもつて林檎はまつかだ
まつかなりんご
りんごをぢつとみてゐると
ほんとに呼吸をしてゐるやうだ
ねむれ
ねむれ
やせおとろへてはゐるけれど
此の掌(て)の上でよくねむれ
此のおもみ
此の力のかたまり
うつくしいのは愛だ
そして力だ
林檎一つ
ひたすらに自分は祈る
ましてこのたそがれの大なる深さにあつて
しみじみとりんごは一つ
りんごのやうに自分達もあれ
此の真実に生きよう

*太字部分が挿入された部分

薄暮祈り』について

『苦悩者』第2号(大正7年11月)にて発表。第3詩集『風は草木にささやいた』(大正7年11月・白日社)Ⅹ章に収録。

 

詩を読む

当時の暮鳥の作風

この2作はほぼ同時期に制作された詩である(※要確認)と考えられている。『薄暮祈り』が掲載されている詩集『風は草木にささやいた』は暮鳥にとっても再起をかけた作品であった。前作『聖三稜玻璃』の頃の”新詩法”はきっぱりと捨て、自然への愛情や大地自然とともに生きる人間賛歌的な詩を中心とした作品となっている。『りんごよ』も言葉の響きを大切にする作品ではあるが、意味としての重要性もある。

不完全だった『りんごよ……』

『りんごよ』は未定稿であり雑誌への発表がなされていない。未定稿作品は単に発表されなかっただけなのか未完成なのか分からないものの、いずれにしても”不完全”な作品であることに間違いはないだろう。

万物節とは

万物節という言葉はおそらく造語である。キリスト教の「万霊節」という言葉をもとに、暮鳥の汎神論的自然観と照らし合わせて「霊」を「物」に代え、すべての物は神の顕現によって肯定されるといった意味を示していると考えられる。

 

暮鳥にとっての「りんご」

りんごは何の象徴なのか。様々な解釈が可能である。『薄暮祈り』には

うつくしいのは愛だ

という一節がある。一般的に愛と言われると赤いものをイメージすることは可能だろう。りんごは愛の象徴であると考えることもできる。

又、2つの詩に共通する主題は

ほんたうのことは なんといつてもたつた一つだ(りんごよ……)

りんごのやうに自分達もあれ 此の真実に生きよう(薄暮祈り

といった「真実に生きる」という素朴で根元的な願いであると思われる。暮鳥の詩の中ではしばしば生命について歌われる。りんごは生命の表象の一つであり、赤く燃えた生命の灯であると考えることもできるだろう。

 

意味が難しい語も少なく非常に読みやすい詩であるが、具体的に解釈していくのは難しい作品であると思う。ここではあえて深い解釈には言及しないが、いくつか注目すべきポイントを挙げておく。

まず『りんごよ』の4行目には、読点が置かれている。これは実際に歌う時にも意識するべきポイントである。もちろん、ここにある「だが」という接続詞は逆接であるが、何に対しての逆接なのか考察する必要がある。

薄暮祈り』で一番注目すべきはやはり15行目のみ漢字の「林檎」であるということではないだろうか。ここが曲の中でも引用されていることを考えると、ここはしっかりと解釈しておきたい部分だ。(ちなみに「重み」と「おもみ」も使い分けられているが、直接的に本曲とは関係がないと思われる。)

 

参考までに暮鳥が「りんご」を使っている他の詩をいくつか引用する。

詩集『雲』より

りんご

両手をどんなに
大きく大きく
ひろげても
かかへきれないこの気持
林檎が一つ
日あたりにころがつてゐる

赤い林檎

林檎をしみじみみてゐると
だんだん自分も林檎になる

おなじく

ほら、ころがつた
赤い林檎がころがつた
な!
嘘嘘嘘
その嘘がいいぢやないか

おなじく

おや、おや
ほんとにころげでた
地震
地震
赤い林檎が逃げだした
りんごだつて
地震はきらひなんだよう、きつと

おなじく

林檎はどこにおかれても
うれしさうにまつ赤で
ころころと
ころがされても
怒りもせず
うれしさに
いよいよ
まつ赤に光りだす
それがさびしい 

おなじく

こどもはいふ
赤い林檎のゆめをみたと
いいゆめをみたもんだな
ほんとにいい
いつまでも
わすれないがいいよ
大人(おとな)になってしまへば
もう二どと
そんないい夢は見られないんだ

さらに読みたい方はこちらを参照。

山村暮鳥 雲

 

続いて、曲の中での詩の流れに注目してみたいと思う。

(ルルルルルルララララー ルールールールー)
りんごよ
りんごよ
だが、りんごよ
ほんたうのことは
だが、たった一つだ
りんごよ
りんごよ
なんといっても
ほんたうのことは
だが、たった一つだ

此のおもみ
此の力のかたまり
林檎一つ
ひたすらに自分はいのる

一生は一つの願いだ
りんごよ
一生の一つの願いだ

ころりと
こっそりわたしに
ころげてみせてくれたらのう
りんごよ
りんごよ

りんごよ
りんごよ
だが、ほんたうのことは
りんごよ
たった
たった一つだ
此のおもみ
此の力
りんごよ
りんごよ
(ルール―ルールー)

元々の詩と読み比べるとやや印象が変わっている。特に「だが、りんごよ」というような「だが、」の位置の変化は重要なポイントであると感じる。

挿入句は2回出てくるが、2回目は「此の力のかたまり」ではなく「此の力」という言葉に代わっているのも気になるところか。

 

曲について

最後に曲について少し補足的に見ていく。

冒頭が8分の9拍子であるが、A以降は最後まで8分の6拍子で音楽が流れ続ける。

強弱は、pからfffまでかなり幅広い。急激な変化も多いため注意が必要である。例えば、AとBとでは強弱の変化の仕方が異なり印象も全く変わってくる。全体的にかなり細かく書き分けられているので注意深く演奏したい。

注目したいこととしては、A~Bでは1拍目に「りんごよ」と歌うが、E以降はアウフタクト的に2拍目から「りんごよ」と歌う形に変化する。

追記(7.24)

練習番号Aはロ短調(E moll)だが、練習番号Eからはト長調(G dur)に変化する。平行調への転調であるため調号は変わらないが、曲想としては大きく変化している。

アクセントのつけ方にも注目したい。41・42小節目は「り」ん「ご」「よ」というアクセントだが、57小節目は「り」「ん」「ご」「よ」というアクセントがついている。このような細かいアーティキュレーションにも十分気を付ける必要がある。

 

以上で、無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より、『りんごよ』の解説を終わる。

(2018.8.7)

独唱(山村暮鳥 / 信長貴富)

無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より
5.独唱
詩:山村暮鳥 曲:信長貴富

かはたれの
そらの眺望(ながめ)の
わがこしかたの
さみしさよ。

そのそらの
わたり鳥、
世をひろびろと
いづこともなし。

 

『独唱』について

『詩歌』第2巻第12号(大正元年12月)にて発表。暮鳥の第1詩集『三人の処女』(大正2年5月・新声社)に収録。この詩は「SAGESSE」の「I 創造の悲哀」という章の1つ目の詩であり、『三人の処女』全体の中で一番はじめに収められている詩である。

 

解釈にあたって

語の意味を確認

かはたれ→明け方のこと

かわたれどき【かわたれ時】

《「彼 (か) は誰 (たれ) 時」の意。あれはだれだとはっきり見分けられない頃》はっきりものの見分けのつかない、薄暗い時刻。夕方を「たそがれどき」というのに対して、多くは明け方をいう。

出典『デジタル大辞泉』(小学館

*夕方の薄暗い時分のことをいう場合もあるが、現在の用例では明け方が普通。

こしかた(来し方)→通ってきた道

こしかた【来し方】

1 過ぎ去った時。過去。きしかた。
2 通り過ぎてきた場所・方向。

出典『デジタル大辞泉』(小学館

さみしさ→人の気配がなくてひっそりとしているさま。

いづこともなし→どこへというあてもなく。

いづこともなく【何処ともなく】

どこへというあてもなく。どことも知れず。
(いづこ+と+も+なし)

出典『デジタル大辞泉』(小学館

『三人の処女』刊行当時の作風

『三人の処女』について、神保治八は「全体として浪漫的抒情によって支えられている。その中には、ことば音楽ともいうべき美しい情緒の流れがある。(中略)感情を優位に、哀愁が発想となった抒情詩である。」と述べている。「独唱」もまさに抒情的な作品の一つであり、少年時代における淋しく悲しい生活への懐古の情と、自由への願望、また精神的に孤独だった暮鳥の想いが全面に出ている。また、詩集全体を貫く要素の一つに「陰影(かげ)」というキーワードもしばしば挙げられる。

解釈例

堀江(1994)の解説文を引用する。

夕方の空は詩人が過ぎてきた過去の道程である。まさに暮れようとして覚束ない空の眺望そのものが詩人の心象風景であり、それは自らの過去の寂しさであると同時に現在の寂しい心情が託された風景である。憂愁に閉ざされた詩人の孤独な姿が客観される。
第二連には、詩人の孤影と対象的に渡り鳥が点描される。空は夕暮れの寂しさをたたえているが、その空を渡っていく渡り鳥は、「世をひろびろと」見下ろし、いずこともなく渡って行く。「世をひろびろと」というのはまた、囚われずに自由に生きる、ということでもある。そのようなありようへのあこがれが託されている。その渡り鳥もすぐ夜の闇に閉ざされる存在ではあるが、大空を飛ぶ鳥には、憂愁に閉ざされ、囚われた詩人にはないひろやかな視点と自由がある。
「わがこしかた」の寂しさからの脱却、囚われない、自由へのあこがれがうたわれ、それはまた詩人の「さびしさ」を際立たせるという関係にあり、序詩としてこの詩集全体を暗示する。

出典:『山村暮鳥の文学』(筑波書林)

田中(1988)はこう述べている

「かはたれ」に重ねて、「わがこしかた」を「さみしさよ」と歌わずにはいられないこの時点における過ぎこしかたの眺望と、しかも「世をひろびろと」というとおり開けたところに立ちながら「いづこともなし」とまだ行くべきところが明確に見えていない青年の内面が重ねられていると読める。

出典:『山村暮鳥』(筑摩書房

 

楽譜を読む

今回は詩の流れ方に注目してみる。(便宜上すべてひらがなで表記した。)

かはたれの
そらのながめの
わがこしかたの
さみしさよ(わが)
さみしさよ

そのそらの(その)
わたりどり
ひろびろと
よをひろびろと
いづこともなし

かはたれの
そらのながめの(わが)
さみしさよ
わがこしかたの
さみしさよ

※()内は対旋律的に歌われている歌詞

全体としては、第1連→第2連→第1連という構成で使われている。

注目したいのは、第1連での「さみしさよ」という言葉の繰り返し方や、第2連での「ひろびろと」という言葉の繰り返し方である。この曲の場合、同じ言葉をニ度繰り返すときのダイナミクスに規則性があるので、歌う時には十分気をつけたい。

曲についての補足

最後にほんの少しだけ楽典的な部分も書いておきたい。

音楽用語

まず、Aのところに書かれている音楽用語は、速度標語の”Larghetto”(ラルゲット)。意味は「Largoよりやや速く」である。

Largoは速度標語として「ゆるやかに」といった訳があてられることが多いが、イタリア語の意味としては「幅が広い」というような意味である。

Largoの「ひろびろと」した雰囲気を保ちながら旋律の横の流れも大切にした演奏が望まれるのではないかと思う。

*このあたりについてこちらのブログに非常に詳しく書かれていたのでリンクを貼らせて頂く。


tomo110td5.blog.jp

表現について

曲全体を通してダイナミクスの変化がかなり多く、特に「短いcresc・dim」が多用されているのが特徴的である。また、言葉の区切れでスラーが切れるように書かれているのも重要なポイントではないだろうか。

詩からは物悲しさを感じるが、曲はAメジャーで終始明るめに進行していくのであまり暗くなりすぎないほうがいいだろう。

 

以上で、無伴奏男声合唱曲集「じゆびれえしよん」より『独唱』の解説を終わる。

(2018.7.28 最終更新)